「臨終徒然草 - 山田風太郎」ちくま文庫 半身棺桶 から

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「臨終徒然草 - 山田風太郎ちくま文庫 半身棺桶 から

私が「人間臨終図巻」という本で、古今東西の有名人の死の様相を書きつらねて見せたのは、実はただ伝記的興味からであったが、それでも千人近くも書けば、結果として、「どんな死に方が望ましいだろうか」とか、「だれを見習ったらいいだろうか」というような発見が出て来るかも知れない、という気持もいささかあった。
結論としては、あたりまえかも知れないが、これという見本は得られなかった。「望ましい死とは、自分で選ぶことができるなら選ぶであろう死のことである」と、ある西洋の学者が当然のことをいっているけれど、そもそも人間は、自分で死に方を選ぶことが出来ないのである。
自殺は、たしかに自分の意志による死にちがいないが、大半それは外界で追いつめられたあげくの意志である。これに対し、徹頭徹尾自家製の死に方をした - それぞれかたちはちがうけれど、たとえば大石内蔵助とか、三島由紀夫とか、植村直己などは、その意味で幸福な死といえるかも知れない。ただし、これらの例を見てもわかるように、とうてい常人にまねられる死に方ではない。
大半の死は、推理小説のラストのごとく、本人にとって最も意外なかたちでやって来る。人生の大事は大半必然に来るのに、人生の最大事たる死は大半偶然に来る。だから、あらかじめ用意することなんか出来はしない。
人々はいろいろと健康法や長生き法にけんめいである。が、その多くはせいぜいガンと心臓病と高血圧への予防にしかすぎず、人間の病気はそれこそ万病で、予防のしようもないもののほうが多い。ガンだって、肺、胃、腸以外のところに発生するものの大半はお手あげである。
そもそも大半の人間にとっては、死の形態云々の前に、死の到来そのものが大意外事らしい。人間は他人の死なら、どんな死にも驚かないが、自分の死だけには驚く虫のいい動物である。死ぬことはわかっている。が、「いま」死にたくないのだ、と、みんないう。そのいまは永遠のいまである。
人間が平気な顔をして生きていられるのは、その「いま」がわからないからである。もしも自分が死ぬ年齢が - いろいろなデータを打ちこんで、選挙の当落の予想みたいにコンピューターでわかるという日が来たら、その人の生き方は一変するだろう。従って社会相も一変するだろう。従って歴史すら一変するだろう。インチキな占いではなく、将来案外、そういうSF的事態が現実のものとなる日が来るかも知れない。
多くの人の死を見て思うことの一つは、人間の死には、早過ぎる死か、遅過ぎる死しかない、ということである。主観的にも客観的にも、早過ぎず、遅過ぎず、ピタリといいところで死んだ人があれば、それも幸福な死だろう。
しかし、そんな死はまずない。死ぬ当人は、何歳になっても早過ぎるように思うらしい。
若くして死ぬ人が早過ぎると思うのは当然である。特に私の「図巻」に登場したような若い人は、非業の死をとげたかもともと天才的な人物が多く、まさに万斛[ばんこく]の恨みを残す死でまことにいたましい。
五十歳になったとき九十歳まで生きたいと思う人間は、まあそういないだろうが、八十歳になると、ふしぎに百二十歳まで生きようなどという大望を起こすものらしい。
が、客観的にみれば、遅過ぎる死が多いように見えるのは、どうしようもない。私の「図巻」を見ても、八十歳ないし八十五歳を越えると、特別な例外を除き、ただ生存しているだけという例が多いように思う。
長寿時代に入ったというけれど、それは乳幼児の死亡や若年者の結核が減ったというような事実から来た統計上の変化であって、ある年齢を過ぎてからの肉体や脳髄の弱化は、昔とそれほど変わらないのではあるまいか。長寿を望む人は、四十代ないし五十代の肉体と脳髄のままで、八十、九十まで生きられると錯覚しているのではないか。
私自身すでに生き過ぎたという自覚があるので、自戒の意味で警句を作ったのだが、曰く、
「人間は老いても、生きるには金がかかる。 - 人間の喜劇。人間は老いても、死ぬときには苦痛がある。 - 人間の悲劇」
また、
「死ぬのは本人の地獄である。死なないのは他人の地獄である」
これは介護その他の他人の苦労のことである。
ラ・ロシュフコーはいう。「ふつうの人間は、死なないわけにはゆかないから死ぬだけである」-が、また、ふつうの人間は、死ぬわけにゆかないので生きているだけである。死なない以上、われわれは生きていなければならない。この生をいかにすべきか、自分のこととしていろいろ考えてみたが、どうもうまい工夫がない。
ともあれ、これだけの人々の死を書いて、しかも死を語ることは、なお靴をへだてて痒きをかくがごとし。自分が死んで見なければ死を書くことは出来ない、という結論に達した。