1/3「魚の楽しみ - 司馬遼太郎」岩波書店 エッセイの贈りもの4 から

f:id:nprtheeconomistworld:20200728083029j:plain


1/3「魚の楽しみ - 司馬遼太郎岩波書店 エッセイの贈りもの4 から

-『湯川秀樹著作集』が出ることをきいて-

よくいわれることだが、湯川さんがノーベル物理学賞を授与されるという外電ほど、占領下の日本をあかるくしたことはなかった。昭和二十四年(一九四九)のことで、まだ日本じゅうが焼け跡たらけの時代だった。
そのころ私は駈けだしの新聞記者で、しかも京都大学がうけもちだったから、このために変にいそがしかった。なにしろノーベル賞というのは西洋人がもらうものだと思っていたので、賞そのものについての基本的な知識さえなかった。
当の受賞者は対米中で(プリンストン高等研究所客員教授など)会うことができず、このため理学部構内を歩いて、同じ学問のひとたちをつかまえては話をきいた。会う人のたれもが、いい笑顔で応じてくれた。いまでも、私の当時の記憶には、これらの笑顔がいっぱい詰まっている。
そういう笑顔の一つに、湯川さんとは別系統の履歴をもつ工学部の物理学の老教授がいて、私のような門外漢に対し、“あなた、何もごぞんじないのも、あれでしょうから”と、数日にわたって、湯川中間子理論にいたるまでの理論物理学発展史について噛みくだいて教えてくださった。胸が痛くなるようなありがたさだが、これも、日本じゅうが上機嫌になってしまったことの余慶だったといえる。
もっとも、そのあと湯川さんが一時帰国したときは、京都駅前で歓迎イヴェントがあったり、自邸まで車の列がつづき、夕食の献立まで書く地元紙があったりして、弥次馬としての私の気分が冷えてしまった。
当の湯川さんに親炙するようになるのは、そのころではなく、なにもかも過ぎて、二十年近くたってからである。すでに物理学者としてよりも、この人の本質である思想家としての風骨がたかだかとそびえるようになっていて、じつにいい景色だった。そのころ、専門の分野ではこの人の「非局所場理論」が過去のあつかいをうけ、それについての不満をのこしておられたものの、ともかくも思想における独創とはなにかということばかりを考えておられた。 
「三浦梅園(江戸中期の哲学者。三十歳のころ自然に法則があることを知り、それを証明すべく思索し、著作に『玄語』などがある)はほんものですね、なぜなら、ざらざらしているから」
と、あるときいわれた。
ざらざらしている、というのは、体系や論理に、致命的ではない程度の矛盾がある、という意味である。それらがカンナでかけたようにきれいに整合されるのは二番手になってからで、ともかくも独創的なしごとにはざらざらがつきまとう。そのことはむしろ梅園にとって名誉なことだというのである。あるいは、前掲の「非局所場理論」についての学界の評価がひややかだったことに対する不満も、反映していたかもしれない。
またこの人は、空海(九世紀に密教体系を展開した僧)が好きだった。
空海は独創的だったとする。その論証としては、空海の著作から検証するよりも、視覚と心象あるいは直観からとらえるというやり方で、その点、きわめて湯川好みの密教的把握というべきだった。
この人は、あるとき東寺を訪ねたらしい。京都の東寺は、空海が、新体系である密教の一大根拠地とした寺で、怪奇で悪魔的とさえいえる仏像が、ひしめいている。