2/3「魚の楽しみ - 司馬遼太郎」岩波書店 エッセイの贈りもの4 から

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2/3「魚の楽しみ - 司馬遼太郎岩波書店 エッセイの贈りもの4 から

とくに五大明王とよばれる五体の明王像は、遠い天平や近い鎌倉の救済的な仏像からみれば、とても容れられるものではない。五体明王のうちの降三世明王[ごうさんぜみようおう]にいたっては牙をむき三つの目をかっと見ひらき、おそるべき忿怒[ふんぬ]相を示しつつ、そのくせ裸形[らぎよう]は女人のようにふくよかなのである。もっともその裸形も、それを否定するかのように青黒く塗られている。どれが正でなにが反であるかはわからないうちに、見る者は四つの顔におどろかされ、八つの腕に持たれた武器におびえてしまう。武器は正義の象徴かと思ううちに、足もとに仏像らしいものが踏みしだかれているのを見るはめになる。踏まれているのは、インドにおける最高神のシバ神とその妻のウマ妃なのである。
この降三世明王の姿にはむろん教学的な説明はある。しかしそれはカンナにかけられて整合された知識であって、ひらべったくなってしまう。
それよりも、無心に、このおそろしい像における多様な価値の激突をみているほうがおもしろく、そのほうが降三世明王の構成から空海の宇宙表現を感じとれるのではないか、というのがこの人の感受性だった。
空海は独創的やね」
と、いった。私はただちにはうなずけなかった。これらの密教や諸仏や諸天あるいは明王たちは、空海長安の恵果のもとから持ちかえった儀軌[ぎき](真言密教の型)にもとづくもので空海の独創ではないと思えるのだが、そのような態度は、さきにのべた“ざらざら”ではなく、すでに二番手として整理され、カンナで仕上げられたものをよろこぶ側になるのかもしれない。
「霊魂はありますか」
とたれかがきいたとき、湯川さんは、
「あるともないともいえない、というのが科学的ということじゃないでしょうか」
と答えた。それに類したことを「おりにふれて」というみじかい文章に書いている。
それに、この人は『荘子[そうじ]』が大好きであった。その第十七篇「秋水」のなかで、荘子[そうし]が、橋上から魚のむれをみて“ごらんよ、魚がおよいでいる。魚にとっておよぐことが楽しみというものだ”とつぶやくくだりがある。同行していた友人の恵子[けいし](紀元前三七〇~同三一〇年)が反論して“君は魚じゃない、魚の楽しみがわかるはずがないじゃないか”といった。
恵子は博識かつ議論ずきで、つねにいうことは理路整然としている。だから、魚でもない荘子に魚の楽しみがわかるはずがない、とする。これに対し、荘子は別次元から問題を展開して“だから橋上から見たとき、私には魚の楽しみがわかったのだ”とした。
ふつう恵子の態度のほうが科学的もしくは合理的ということになる。降三世明王像についても、空海の独創ではなく、長安の恵果があたえた伝承的な儀軌にもとづくものだろうと考えるのが、恵子の態度である。私などは恵子に安心をおぼえる。
が、湯川さんには橋の上の荘子のほうが魅力的なのである。
「......私自身は科学者の一人であるにもかかわらず、荘子の言わんとするところの方に、より強く同感したくなるのである」
と、湯川さんはその文章の中にいうのである。
このあたりが、湯川さんの考え方の尽きざるおもしろさといっていい。