3/3「魚の楽しみ - 司馬遼太郎」岩波書店 エッセイの贈りもの4 から

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3/3「魚の楽しみ - 司馬遼太郎岩波書店 エッセイの贈りもの4 から

その文章は、つづく。この人は、科学的思考法につき両極端があると設定する。一方の極端は「実証されていない物事は一切、信じない」という考え方である。まことににべもない態度を、多くの科学者はとってきた。
他の極端は「存在しないことが実証されていないもの、また起り得ないことが証明されていないことは、どれも排除しない」という考え方であるとする。湯川さんは、こちらに近く、そうであることがこの人にとって湧きつづける泉のような“場”になっていたのである。

もしも科学者の全部が、この両極端のどちらかを固執していたとするならば、今日の科学はあり得なかったであろう。デモクリストの昔はおろか、十九世紀になっても、原子の存在の直接的証明はなかった。それにもかかわらず、原子から出発した科学者たちの方が、原子抜きで自然現象を理解しようとした科学者たちより、はるかに深くかつ広い自然認識に到達し得たのである。「実証されていない物事は一切、信じない」という考え方が窮屈すぎることは、科学の歴史に照らせば、明々白々なのである。
(「おりにふれつ」) 

まことに、橋上の荘子である。
もっともつねに荘子的な次元にいたわけではなく、四六時中、事物の正体という恵子のレベルのことも知りたがり、なにごとも世の中に出てきたばかりの少年のようにめずらしがった。
「京都のふるい料理屋は、むかしから初対面[いちげん]さんを入れないといいますね、あれはなぜですか」
と、清水の古い料亭で、おかみさんをつかまえて、きいたことがある。あどけないほどの笑顔だった。
おかみさんのほうもこのあどけなさに気圧[けお]され、ついしきたりという神秘的な膜を張ることなく、明晰に答えた。
ごく簡単なことだった。いちげんさんは、帰るときに現金で勘定したがる。しかし帳場では勘定の基礎的資料がないために応じられないというのである。魚屋も酒屋も炭もみなつけで、かれらは翌月に請求書をもってくる。それらを合計してからでないと勘定がきまらず、従っていちげんお断りなのです、とおかみさんがいったときの湯川さんは、世にもうれしげだった。
こういう店では、色紙はねだらない。ところが、おかみさんは湯川さんの文章が好きで、このとき、みごとに折り目をただして湯川さんにそのことを乞うた。湯川さんは勘定の話をきいた自分の笑顔につき動かされるように応じ、
「知魚楽[ちぎよらく]」
と書いた。魚ノ楽シミヲ知ル。前掲の『荘子』の「秋水」の最後の一句である。
湯川さんは、長兄の貝塚茂樹博士や末弟の小川環樹博士などと同様、その祖父君から素読をならった。幼稚園に入ると、祖父君が隠居部屋によんで、教えるのである。
紀州なまりの素読でした」
と、小川環樹博士はいう。
湯川さんの生家は小川姓で、この祖父君は紀州藩士として長州征伐のとき、退却のときの殿[しんがり]をつとめたというほどの勇者であった。その後、慶應義塾に入って、新しい学問をならったという。この祖父君による素読は、湯川さんらの父小川琢治藩士もふくめて三代つづいた。
荘子』はむろん儒学の本ではないから、後年になって湯川さん自身が愛読書としてえらんだものである。素読でならう『論語』などは思考の型がきまっているせいか、あまり好きでなかったという。『荘子』が儒書ではないとはいえ、それに親しむことができたのは、紀州以来の家学ともいうべきもののおかげだったにちがいない。