「母語の文学に癒されて - マーク・ピーターセン」PHP 人生の「秋」の生き方 から

f:id:nprtheeconomistworld:20200801082751j:plain


母語の文学に癒されて - マーク・ピーターセン」PHP 人生の「秋」の生き方 から

仕事があることがいちばんの幸せ

二〇〇六年のクリスマス、四年ぶりにアメリカに帰り、妹や弟、叔父、叔母、従弟などの家を訪れてきた。不思議なことに、その「親戚巡り」では、どの家でも同じ「思いがけない質問」をされた。“Where are you going to retire to?”と訊かれたのである。
この英語表現は単純には日本語にならない言い方だが、みんなが訊きたかったのは、簡単にいえば「マークももうそろそろリタイアでしょ?どこに住むつもり?もちろん生まれ育ったわがウィスコンシン州にするよね。まさか日本とか、いわないよね」といったところだ。
じつは、私は二〇〇六年に還暦を迎えたので、向こうの感覚では当たり前な質問にすぎなかったのだろうが、即答するにはちょっと困った。「はぁ、まだそこまで考えていないんだけど」と適当に答えようとすると、とても不愉快な顔をされた。
しかし、実際「隠居生活」など、これまで一度も考えたことがないのだ。それは、仕事があること自体がいちばんの幸せだと思っていて、やらせてもらえる仕事がなくなった自分を想像したくなかっただけなのかもしれないが、大学で日本人と一緒に働くのに慣れ、その愉しさが十分わかってきた自分は、人生後半になってもこのままでいこう、ということしか頭にないのだ。

「外国語」の刺激と、母語の文学による癒し

ただ、考えてみると、ずっと外国語(私の場合は日本語)の環境のなかで暮らしてきた人間の「隠居生活」に現れがちなある現象が、すでに現在の私の生活にも現れてきた。それは、母語で書かれた文学を読むことがだんだん多くなってくる、というものである。とりわけ高校・大学のときに読んだことのある「純文学」が中心で、私の場合は、たとえば、ディケンズやブロンテ姉妹、マーク・トウェインヘミングウェイ、F・スコット・フィッジェラルド、ナボコフなどの、メジャーな小説が多い。日常生活で出合うことのない、とても優れた英文を読んでいるだけで、なんだか癒されているような気持ちになってくるのだ。
この現象は、英語やフランス語、ドイツ語など、外国語を専門とする私の日本人の同僚にも見られる(人生後半を迎えた日本人の「外国語学者」は、とりわけ『暗夜行路』の再発見で感動することが多いらしい)。きっと私と同様、若いころに読んだ優れた小説を、人生の後半であらためて読んでみると、はるかに意味の深いものだと感じるのだろう。人間として幾分か成長した自分が、新たな視点で作品に触れることができて、いい気分になるのかもしれない。
ところで、これは“Where are you going to retire to?”と訊いてくれた親戚の人たちにはなかなかわかってもらえそうもないことだが、このまま日本に暮らし、つねに周りにある日本語という「外国語」から刺激を受けながら、ときどき母語の優れた文学に癒されていくというのが、結局、私の人生後半の幸せなのかもしれない。