「喫茶店彷徨 - 別役実」光村図書 ベスト・エッセイ2010 から

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「喫茶店彷徨 - 別役実」光村図書 ベスト・エッセイ2010 から

カバンに原稿用紙と筆記具を入れて、昼ごろ「行ってまいります」と家を出る。これが私の日課である。若いころ六年ばかりサラリーマン生活をしたので、これをしないと仕事にかかる気がしないのだ。家に小さな仕事場がないではないものの、よほど急ぎの原稿でなければ、朝起きてそのままそこで仕事、ということはしない。
もよりの駅まで歩き、来た電車に乗る。その駅からは、一方は吉祥寺、一方は渋谷に通じており、やってきた電車に乗るのであるから、どちらへや行くかは電車次第、ということになる。もちろん、渋谷行きに乗って途中明大前で乗り換え、新宿に出ることもある。
もちろん、それでは仕事をするのは吉祥寺か渋谷か新宿かというと、そうでもない。確かに、その三ヶ所で仕事をすることが一番多いが、その日の気分によって、そこから乗り換え、もうひとつ先へ行くことも決して少なくない。あらためて考えてみれば、ほぼ都内全域を歩きまわっている、と言っていいだろう。
仕事場は喫茶店である。各所にそれらしい喫茶店を見つけてあり、そこに入ってコーヒーを頼み、原稿用紙を広げるのである。そこではじめて、「さあ、仕事だぞ」という気分になるのだ。
ただし、この「それらしい喫茶店」というのが、なかなか見つけにくい。昔は、いわゆる「名曲喫茶」というのがあって、ゆったりとした空間でクラシックの曲を聞かせ、そこで私のように仕事をする人も多かったから、さほどあせることもなく居すわれたのだが、地代が高くなって経営が難かしくなったのだろう、これが都内から激減した。久し振りに行ってみると、跡形もなくなっていた、ということを幾度となく味あわされたのである。そしてまた、こちらが年をとったせいもあるかもしれない、残っている何軒かの店も、照明が暗くて仕事にならなかったりするのである。
代りに出来たのが、コーヒー代が八百円から千円と高いサロン風の喫茶店と、逆にコーヒー代は百五十円から二百円と安いものの、客の出入りが激しく、空間もせせこましく、とても仕事どころではない簡易喫茶店である。従って私は、前者は編集者との打ち合わせなど(コーヒー代は編集者が払う)に、後者はちょっとした時間つぶしなど(芝居の開幕まで時間が空いた時)に使うことにしている。つまり、仕事場にはならないのだ。 
というわけで現在は、コーヒー代が五百円前後で、照明が明るく、空間が比較的ゆったりとしており、何より煙草が吸え、当たりさわりない音楽が流れ、長時間居坐っていても店員がさほどビックリしない店を探して使っているが、これがなかなか難かしい。もう少しうるさいことを言えば、そこではケーキやサンドイッチくらいは出してもいいが、カレーライスやスパゲッティーなどは出してもらいたくない、ということもある。

いつか友人がとある店でコーヒーを飲んでいたら、隣の席の客が「レバニラ定食」を食べていた、という話を聞いたことがある。もちろん説明によると、それは隣の中華料理店からの「お取りよせ」だったらしいが、これも困る。気どったことを言うつもりはないし、ことさら喫茶店を神聖化するつもりはないが、やはり喫茶店というのは、通常の生活空間とはちょっと違うところであって欲しいのである。
私は、隣の席で中年の不動産屋の親父らしい者同士が、物件の説明をしているのは嫌いじゃないし、それこそ学生らしい何人かが文学の話をしているよりは、よほど平然と仕事をしていられるというものだが、当然ながらそこではコーヒーを飲んでてもらいたいのであり。喫茶店でありたいのである。ただし、と、ここでもうひとつ注文をつけたいのであるが、逆に喫茶店でありすぎるのもよくない。ひところ、店の中に滝を造ったり、障子で仕切ったりした、いわゆる「和風喫茶」や、古民具を店いっぱいにはびこらせた、いわゆる「民芸喫茶」などがあったが、「異次元空間」にしようという考え方は理解出来るものの、あれはやりすぎである。
また、コーヒーに凝りすぎて、飲み方にいちいち注文をつけたり、それについてのうんちくを押しつけたりする店もどうかと思う。ともかく、私としては「フツーの喫茶店」でありたいのだが、昨今「フツー」ということが、喫茶店に限らず、街全体から失われているような気がする。
私は、アルコールを受付けない体質のせいか、若いころから喫茶店というところを持場にしてきた。良い喫茶店を見つけ、コーヒーを注文し、煙草に火をつけ、用意した推理小説の頁を開くのを、至福のひとときと考えてきたのである。貧乏なころは、「一日に一杯のコーヒー代と、一箱の煙草代と、文庫本の推理小説を一冊買うお金があれば、生きていられるのだが」とすら思ったものだ。そしてこのことが、そこを仕事場にしてしまったことにつながる。
時々仕事で地方に行って、ちょっと時間があるとその街の喫茶店を探す。人に聞くこともあるが、これはあまり期待できない。「このあたりに、いい喫茶店はありませんか」というのが、最もありふれた聞き方だが、私の言う「いい喫茶店」とそいつの考える「いい喫茶店」は、どことなく違うのである。
予備知識なしにそうした店のありそうな通りを歩いて、「これは」と思うのを見つけ、それがその通りだったことが判明するくらい嬉しいことはない。その街の文化生活の中にそれとなく入りこめたような気さえするのである。
私の観察によれば、今日では都内より地方都市の方に、かつての「喫茶店らしい喫茶店」が多く残っている。もちろん、経営しているのはたいていお年寄りで、「代が変ったらここも、フツーではない店になってしまうんだろうな」と考えさせられるのだが......。
ともかく、私の喫茶店探しの彷徨は、更にあてどもないものになりそうである。