「私の死論は「夫が先に死ぬ」」-斎藤茂太 日本の名随筆8 から

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「私の死論は「夫が先に死ぬ」」-斎藤茂太 日本の名随筆8 から

昨日まで人のことかと思ひしがおれが死ぬのかこれはたまらん

なかなか面白く、味わいのある歌だ。これは蜀山人の辞世の歌らしい。「らしい」というのは、九大名誉教授の高橋義孝氏が著書の中でこの歌を引いているのだが、蜀山人の歌かどうかはっきりしないとことわっているのを、引用させていただいたものだからである。
どうやら人間という生物は、その場に立ちいたらないと、死というものを実感として考えられないところがある。ましてや、おのれの死となると、である。
〈これ、禅宗の話なんですけどね。偉い坊さんが、どこかの金持ちに招かれ、いちばん世の中でめでたい言葉を書いてくれと頼まれて、《父死、子死、孫死》って、色紙かなんかに書いたらしいんですね。金持ちがおこって、「死を三つも並べて、なにがめでたい言葉だ」といったら、その坊さんが「じゃ、こういうふうに書いたら、どう思います」って《孫死、子死、父死》と逆にしたわけです。そうしたら、その金持ちも「なるほど」と納得したそうです〉
という話を作家の井上ひさしさんがある対談で紹介している。
人間、だれでも年をとれば死について考えることが多くなる。いつか死ぬということは必定のことなのだから、これは仕方がないことだ。ただ、問題は死の順序である。
作曲家の高木東六さんと飲んだときにそういう話になった。高木さんは、
「ボク、家内に先に死なれたらどうしよう」
といって、深刻な顔をした。奥さんに死なれたら、もう一日も暮らしていけないという。同席していた仲間の多くがその意見に賛同した。
世にいう天才とか、一事にすぐれた人とか、仕事に全精力をそそいでいる人とかは、多くの場合、妻に依存する傾向が強い。
私もどうやらその部類に入るらしい。妻がいなくなれば、私の日々の生活の基盤は失われてしまうだろう。家庭内のこまごまとしたことは、私には何もわからない。これではいざというとき困ると思っても、つい、女房によりかかって生活している。
ある調査で、妻に先立たれた夫は、その寿命が少なくとも一五年は縮まるという結果が出ている。ヘビースモーカーが、五年から八年の間であるから、これは大変なことである。
妻に先立たれることを考えると恐怖におののくという人はずいぶんいる。自分が死ぬことを想像するよりははるかに恐怖心が強い。ことに高木東六さんのように音楽一筋とか、絵一筋、研究一筋、いわば世俗的なことにかかわらない生き方をしている人ほどしかりだ。
私にしても、妻より先に死にたいと思うのが実感だ。
七月にあいついで亡くなられた作家の船山馨さんのご夫妻は、まさしく比翼連理の枝に結ばれたご夫婦だが、私は自分の死後、女房には長生きしてほしいと思う。私から解放されて、一〇〇歳くらいまで楽しく生きてほしい。
ある大先輩の奥さまは、ご主人を亡くされたあと、見違えるように明るく元気になられた。旅行はする、芝居は観るで、気持がとても華やいできた。もっとも、その先輩は脳溢血で七年間も寝込み、看病も大変だったから、よけいそうなることは当然かもしれない。
これは、わが家の母も同じだ。父が死んでから急に生き生きしだした。それまで女としてやりたいことをしていたようでも、やはり父がいれば世話もしなければならない、そんなブレーキが父の死で一挙に外れれば、ますます元気になる。
でも、私は、これもまたひとつの生き方だと思う。とにかく父は俗世間のことはなにもわからない。反対に母は俗っぽすぎて、それでちょうどバランスがとれていた。
似た者夫婦というが、夫婦が本当に「似た者」だとしたら、その夫婦はあまりうまくいかないかもしれない。ふたりにプラスとマイナスがあり、そのプラスに対して身を引き、マイナスには出ていってそれを埋める。これがバランスのとれた夫婦というものだ。
死に方のバランスも、夫矢印右妻というのがよいのではないか。
いや、ぜひ、そうあってほしいと念願する。