(巻二十六)朝顔や期待の色と違へども(柿坂伸子)

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(巻二十六)朝顔や期待の色と違へども(柿坂伸子)

8月6日木曜日

散歩は夕方にした。風があったのでやや心地よし。

図書館からRコースを歩き三千二百歩階段二回でした。

図書館ではお願いしていた『麻布襍記、附自選荷風百句 - 永井荷風』(中公文庫)を借り受けた。

早速、自選百句を拝読いたした。すでに書き留めてある句もあるが、以下の句をありがたく書き留めさせていただいた。

墨も濃くまず元日の日記かな

まだ咲かぬ梅をながめて一人かな

傘ささぬ人のゆききや春の雨

行春やゆるむ鼻緒の日和下駄

箱庭も浮世におなじ木の葉かな

古足袋の四十もむかし古机

寒月やいよいよ冴えて風の声

よみさしの小本ふせたる炬燵哉

随筆集の「十日の菊」、「偏奇館漫録」、「隠居のこごと」が収録されている。随分とコチコチ読書が楽しめそうだ。

読書:

「喜びは不安に由来する - 茂木健一郎筑摩書房 今、ここからすべての場所へ から

を読んでいたら以下の文章に出合った。

《 ところが、そのように落ち着かない状況にあるからこそ、アメンボたちは生を楽しんでいるのだとも言える。アメンボやメダカを採ってきて、家の水槽で飼育してみた。アメンボたちは水槽の中でもスイスイ、ぴょんぴょんとやっているが、ビオトープの中のよりダイナミックな相互牽制の波の方が、どう見ても楽しそうである。大変だからこそ、楽しいのだ。

人間が社会の中で巻き込まれる軋轢や混乱も、また、アメンボたちと同じような同種間の社会的相互作用に起因している。それは、一方では愛や友情に結実する福音となるが、一方では私たちの存在を根底から揺るがす事態ともなる。恋のさや当て。男の嫉妬。敵愾心。夏目漱石が、晩年「則天去私」の境地に憧れたのも、わからないことではない。》

アメンボの観察から人間社会のことに繋いでいくのは、それはいいのだが、アメンボの楽しみを読んでいて

「魚の楽しみ - 司馬遼太郎岩波書店 エッセイの贈りもの4 から

の以下の文章を思い出した。

《 「霊魂はありますか」

とたれかがきいたとき、湯川さんは、

「あるともないともいえない、というのが科学的ということじゃないでしょうか」

と答えた。それに類したことを「おりにふれて」というみじかい文章に書いている。

それに、この人は『荘子[そうじ]』が大好きであった。その第十七篇「秋水」のなかで、荘子[そうし]が、橋上から魚のむれをみて“ごらんよ、魚がおよいでいる。魚にとっておよぐことが楽しみというものだ”とつぶやくくだりがある。同行していた友人の恵子[けいし](紀元前三七〇~同三一〇年)が反論して“君は魚じゃない、魚の楽しみがわかるはずがないじゃないか”といった。

恵子は博識かつ議論ずきで、つねにいうことは理路整然としている。だから、魚でもない荘子に魚の楽しみがわかるはずがない、とする。これに対し、荘子は別次元から問題を展開して“だから橋上から見たとき、私には魚の楽しみがわかったのだ”とした。

ふつう恵子の態度のほうが科学的もしくは合理的ということになる。降三世明王像についても、空海の独創ではなく、長安の恵果があたえた伝承的な儀軌にもとづくものだろうと考えるのが、恵子の態度である。私などは恵子に安心をおぼえる。

が、湯川さんには橋の上の荘子のほうが魅力的なのである。

「......私自身は科学者の一人であるにもかかわらず、荘子の言わんとするところの方に、より強く同感したくなるのである」

と、湯川さんはその文章の中にいうのである。

このあたりが、湯川さんの考え方の尽きざるおもしろさといっていい。 》

我が家のミカンの鉢植えに若葉が四五枚生まれた。私にはミカンが喜んでいるのが分かるのじゃ。

願い事-叶えてください。延命より緩和です。