「死んだ親があとに遺[のこ]すもの(抜書) - 壇ふみ」新潮文庫 あのひと から

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「死んだ親があとに遺[のこ]すもの(抜書) - 壇ふみ新潮文庫 あのひと から

写真がある。
時は晩秋、ところは懐かしの「離れ」の前の庭である。
危なっかしい足取りで、私が竹馬の稽古をしている。兄の助けを借りてやっとこさっとこ竹馬に乗ったところなのだろう。私のすぐかたわらで、兄が笑っている。
離れの入り口のドアにもたれて、妹がそれをぼんやりと見ている。おとなしく自分の順番を待っているのかもしれない。
おかっぱの妹の頬はぷっくりふくれており、幼児の面差しをとどめている。小学校に入ったばかりというところだろうか。とすると、私は小学校二年生、兄は四年生ということになる。
この写真を撮ったのは父である。父以外には考えられない。なぜなら、その日の一連の記憶は、父とともにあり、ほかに大人の影はいっさいなかったから。
私たち兄妹[きようだい]が子供の頃、父は「火宅の人」の真っただ中にいた。石神井の家に落ち着いていた日はそうなかったはずである。しかし、記憶を手繰ってみると、父と過ごした時間が、次から次へと驚くほど濃いシルエットで浮かびあがってくる。
寝たきりの次郎兄がいたから、もともと出不精の母が家を留守にすることは、ほとんどなかったといっていい。だが、その母の姿より、父との思い出のほうが、くっきりと心に刻まれているのはなぜだろう。細くはあるが途切れることなく子供たちに寄り添っていた、線のような母親の存在の上に、父はまるで、ボタッボタッと墨汁でも垂らしていったようなあんばいなのである。
竹馬の日も、その「墨汁の一滴」だった。
なぜ、「その日」だったのだろうか。植木屋さんが置いていった竹に、ちょうど頃合いのものがあったのかもしれない。買い物の途中で、ふと思い立ったのかもしれない。父のすることは、いつも唐突だった。
とにかく、その日、父は子供たちを庭先に集めて、竹を切ったり割ったりしながら、何やら作りはじめた。
小刀で削る。キリで穴をあける。じれったい思いで待った記憶はないから、多分あっという間のことだったのだろう。
できあがったものを、ヒューイと、まず父が上手に飛ばして見せてくれた。青い空に、竹の羽根がフゥワリと浮かび上がった。それが「竹とんぼ」というものであること、自分たちの子供時代にはこういうもので遊んでいたことを、父は教えてくれた。
父のようにはなかなかうまく飛ばせなかった。何べんためしてみても、どんなに力をこめて手と手をこすり合わせても、とんぼの羽根は、すぐにヘタヘタと足もとに落ちてきてしまう。
ヒューイと飛ばした爽快感を憶[おぼ]えていないのは、きっと飛ばしかたを会得しないうちに、次のものに心を奪われてしまったからだろう。
「次のもの」が、竹馬だった。竹とんぼに続いて、父が作ってくれたのである。私たちはこれに熱狂した。奪い合うようにして乗り回った。
写真は、そんな子供たちの姿を面白がって、父が撮ったものである。自分が引き起こした大騒ぎに、心の中でニッコリと頷いていたのかもしれない。
「チチは、ああ見えて、すっごく子煩悩だったよね」
滅多に帰ってこなかったが、帰ると必ず、子供たちを巻き込んで何かをしたがった父を思い出してそう言うと、「そうかしら」と、母が首を傾げた。
「私と顔を合わせるのが気詰まりだったんじゃないかしら」
なるぼど、だから、父と何かした記憶のどこにも、母の姿がないのかもしれない。
兄妹で酷使したからだろう。竹馬は、あまり上達しないうちに壊れてしまった。
父がいれば、きっとすぐに直してくれただろう。竹馬は二度と元通りにならず、私たちも竹馬名人になれなかったところをみると、そのあて、父は長いこと家を留守にしていたらしい。私たちが竹馬のことを忘れてしまうくらい長いこと......。