1/2「偏奇館跡地を売り飛ばすこと - 半藤一利」ちくま文庫 荷風さんの戦後 から

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1/2「偏奇館跡地を売り飛ばすこと - 半藤一利ちくま文庫 荷風さんの戦後 から

昭和二十三年春、新潟県長岡在から三年ぶりに東京へ戻ってきたわたくしは、さっそく浅草を毎日のように散策した。旧制高校のボート部に属し、隅田川でのお花見レガッタに出漕すべく、向島にあった艇庫で合宿をはじめたから、浅草行きにはまことに便宜がよかったのである。それで早くも仲見世あたりで荷風さんにおめにかかる機会があった、となれば、話がすこぶるうまくいくのであるけれども、そうは問屋がおろさない。荷風さんの浅草通いなど、まったく存じないことであった。
でも、空襲で完膚なきまでに焦土と化した浅草が、急スピードで復興しつつあった様はよく覚えている。それはもう元のようにとはいかないものの、過ぎ去った時代の様を偲ぶには充分な再建ぶりをここかしこに見せていた。戦前の荷風のいうところの「狡猾強欲傲慢」な現代社会において、「無智朴訥、淫蕩無頼」の人びての集まる「別天地」の感は、戦後の浅草もまた然りであった。いや、戦前以上に、時代が混沌とし猥雑となり頽廃しているだけに一層、浅草は隠微な世界を形づくっていたといえようか。いわんや大都劇場、ロック座、常磐座 - と、数からいっても、オペラ館ひとつの戦前なんかくらべようもなかった。
戦争中に書かれた小説『踊子』で、荷風さんは主人公の眼を通して、浅草の魅力をこんなふうに語っている。
「毎日見馴れた町だけに、その変化を見るたびたび過去つた此の年月の事が思出され、われ知らず柔な哀愁に沈められる。その感傷的な情味がなつかしくて堪らない気になるのです。」
この浅草がもつそこはかとない“哀愁”は昔どおりである。その妖しげな哀愁の雰囲気になつかしさと詩情を感じ、二十三年の秋口から、荷風の浅草通いはいよいよ本格化する。夏の盛りのころまでは月に六、七回であったものが、十月には九回、十一月十二回、十二月十三回と、悪天候やら電車の賃上げスト騒ぎもものかはの精勤ぶりとなっていく。
そのナゾを解く鍵が『日乗』にある。
「九月初九。晴。溽暑[じよくしよ]。午前木戸氏偏奇館焼跡地所売却の事につき来話。夜八日頃の月よし。」
「九月十七日。晴。午前木戸氏来話。麻布宅地代金七万九千九百五拾円。此中五万円木戸氏に借り去らる。午後浅草大都座楽屋。帰途中秋の明月珠の如し。」
すなわち、荷風さんは至極ご機嫌で月を昇らせつつ、麻布市兵衛町の旧居・偏奇館跡地を売り飛ばしている。鍵はこれである。
たしかに、このころはすさまじいインフレやら食糧難やら財産税の納付やらで、だれもが青息吐息で日々を送っていた。ところが荷風さんはこの年には莫大な収入のあることが確定的になっている。昭和十五年に中央公論社の嶋中雄作社長と取り交わしていた『荷風全集』刊行が、長々と戦争のために延びていたが、いよいよはじまる。ここに至るまで、つぎからつぎへと問題が発生して、たしかに難航した。でも、間違いなく刊行と決ってからは、荷風はおのれの全集の編纂そして校正に心血を注いでいる。昭和二十三年中に、わずかな執筆活動しか見当たらないのはそれゆえなのである。
そして、その第一回配本が四月三日にあり、四月十日には嶋中社長たちと銀座のカフェーをハシゴしている。『日乗』によれば「景況を視察」とのことであるが、全集刊行祝いであったことは疑うべくもない。もっとも、三、四軒に及ぶせっかくの「視察」も、
「......特に得るところもなく興味もなし。銀座のカフェ-の興味なく喧騒厭ふべき事戦争前と毫[すこし]も異るとこらなし。十時近く自動車に送られて家にかへる。世人との交際その苦痛殆ど忍び難きものあるを知りたるに過ぎず。......」
と、荷風さんは不機嫌そのものである。しかも、五月十九日に、第一回分の印税を受けとっているのに、「弐拾壱万参千四百八拾六円受納。」とだけで、嘘にでも月を昇らせたくなるであろうに、愛想もへったくれもない書きっぷり。第二回配本の印税支払いは九月二十三日、このときも「弐拾五万九千二百三十三円也受納。」とあるだけでお月さまはおろか星ひとつ輝いていない。
が、さきにもふれたが、この全集の刊行ゆえに、二十三年には短篇小説の一つだに荷風は書かなかった。そもそも、金融封鎖にともなう生活一新宣言にもとづき、たしかに固めたはずの新規の小説執筆の覚悟は、いったいどこにいったのか。と、こちとらはついつい非難めいた言辞の一つも吐きたくなるが、何となく他人の懐勘定をするさもしい腹を見透かされたような気分になって面白くない。
それにしても、そんな経済的に安心立命の境地にあるとき、わざわざ偏奇館跡地を売り飛ばしたのはなぜなのか。もはや東京には戻らないぞという覚悟であろうとか、灰燼に帰した蔵書はともかく焼け跡に何の未練も愛着もなかったとか、諸家によっていろいろと解釈がなされている。常識的に推量すればそんなところに落着こう。