2/2「偏奇館跡地を売り飛ばすこと - 半藤一利」ちくま文庫 荷風さんの戦後 から

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2/2「偏奇館跡地を売り飛ばすこと - 半藤一利ちくま文庫 荷風さんの戦後 から

けれども、わが勝手な推理はちょっと違う。この地には大正九年五月二十三日に家を新築して移住してきた。いらい昭和二十年三月十日に空襲で焼け出されるまで、少なくとも荷風の文業は麻布のそこでなされたのである。ゆえにいささかの感慨をもっても不思議ではない。それを荷風はあっさりと見限った。とどのつまり、それは全集の発刊と深く関わっているように思われてならない。わが文学は全集が出ることで見事に完結する。荷風さんはそう観じたにちがいない。いいかえれば、おのれの詩魂はその全集二十四巻にすべてとどめられる。その余のことはことごとく脱け殻、どうでもよろしい。家屋であろうが蔵書であろうが、形の有無に関係なく形骸にすぎないのである。
荷風はスパッと万事を放棄することで戦前戦後に区切りをつけ、以後のおのれは無一物の風狂の徒たらんと決意したように思われる。おのれ一流の風雅に狂わん。それゆえ、今日風にいえば、永遠のホームレスたらんとした。戦前の軍国日本においては、日本にいながら日本からの亡命者として生きてきたが、戦後の亡国日本においてのこれからは一所不住の風狂者として、どこで野垂れ死にしてもいいとの覚悟を定め長らえていくことにする。それが偏奇館跡地売却という形で表された。わたくしはそう推理する。
西行、宗祇、芭蕉良寛......、いや、荷風の生涯の友といえる宝井其角大田南畝為永春水山東京伝亀田鵬斎などを挙げたほうがいいか。風狂の、タワケの先人たちは山ほどもいる。その仲間入りである。タワケとは何か。野口武彦氏の書くところがいい。「タワケとは、いってみれば自己をfouとみなし、そのことで進んで風狂の世界に出向き、戯作する特権を入手した自己に対する呼称である」(『江戸文学の詩と真実』)。かくタワケとなって風狂の世界に身を投じる。隠者と違って風狂の徒は世俗から超越しているわけではない。世俗にかかずらいつつ、世俗との妥協を許さない生き方、逃避ではないから向き合っている。つまり風狂そのものが現世の批評になっている、そんな生き方といえようか。
そうした風狂の世界として浅草ほど格好のところはない。まるで戦争中の厳しい取締りの反動であるかのように、すべでにおいて良風美俗に反逆する隠微猥雑な空気が、戦後の浅草には濃密にある。この年の秋口から、荷風さんの浅草通いが頻繁となるのは、まさにバタカの女たちの間に身を沈め、歓楽第一の趣味を発揮して遊びほうけ、大いに楽しさを満喫したいからである。佐藤春夫の言葉を借りれば、「芳草に横はつて雲雀を聞くと同じやうに庶民といふ自然のなかに溶け込んでゐる」(『小説永井荷風伝』)ということになる。
売り飛ばした偏奇館の跡地に荷風は翌二十四年十月十一日に突然に訪れている。『日乗』にちょっと詳しく記されている。
「......霊南坂上米国大使館裏門前に米国憲兵派出処、向合に日本巡査小屋あり。市兵衛町大通両側の屋敷の重なるものは米国将校の住宅となれり。我旧宅へと曲る角の屋敷(元田中氏)の門にはコロネル何某五百何番地とかかれたり。旧宅の跡には日本家屋普請中にて大工二三人の姿も見えたり。門前の田嶋氏は仮普請平屋建の家に住めり。折好く細君格子戸外に立ち居たれば挨拶して崖上の小道を辿り道源寺坂の方に往く。......」
ここには懐かしくてたまらない、といった懐旧の情などはない。通りすがりのよそ者が乾いた眼で眺めているといったらいいか。そして荷風は死ぬまでふたたびここを訪れようとはしなかった。偏奇館は完全に捨てられて、かわりに卑俗な浅草がえらばれたのである。
(以下略)