3/3「喜びは不安に由来する - 茂木健一郎」筑摩書房 今、ここからすべての場所へ から

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3/3「喜びは不安に由来する - 茂木健一郎筑摩書房 今、ここからすべての場所へ から

人間の脳は、人生がどうなるかわからないという「偶有性」に適応する中で発達していく。全く予想ができないというのではない。それでは、学習することがそもそもできなくなってしまう。ある程度規則性があるのだが、その一方で予想ができないこともある。規則性と予想ができないことが入り交じった状態こそが「偶有性」であり、脳は偶有性を糧として次第に多くのことを学んでいくのだ。
偶有性とは、また、「今、ここ」に私があるその状態はかりそめのものであるということをも含意する。私は、他の誰かでもあり得たのだ。全く違った人間に成長していくことも出来たのだ。成人し、社会の中での位置づけがとりあえず安定したと思えたとしても、その場所に安住してしまうことは偶有性の喪失を意味する。
「今、ここ」の私は絶対ではなく、数多くあった可能性のうちの一つとしての「相対的」な意味しか持たない。「今、ここ」の私は、満月の夜にいっせいに産出されるサンゴの卵のうち、たまたま着生した一つの命に過ぎない。そのように認識する時、私たちは「今、ここ」の自分のあり方が根底から失われてしまうことを感じるとともに、その不安の底から、生きるということの深く甘美な喜びをも味わい分けるのである。
ある時、私は大学の公開講座で「脳と人間」というタイトルで講演していた。話をし終えて、パネル・ディスカッションの時間となった。そうなれば自分が話している時以外は、会場を見渡す余裕ができる。私は、他の論者の言うことに耳を傾けながら、会場にいる人々の顔を一人ひとり眺めていた。
「聴衆」というひとくくりの名前で呼ばれれば塊になってしまうが、じっくりと向き合えばかけがえのない個人の集まりである。日本人には個性がないという手垢のついた言い方があるが、実際にはそんなことは全くない。「今、ここ」のそのままで、実にユニークな個性を一人ひとりが持っている。問題はそれに気づくかどうか、その表現することを社会が、そして誰よりも自分自身が許容するかということである。
若い人。血気盛んな人。人生の秋を迎えた人。柔和な人。険しい人。美しい人。ごつごつした印象の人。線が細い人。剛胆な人。なつかしい感じの人。ちょっと嫌な人。思わずにっこり笑いたくなるような人。髪の毛がたくさんある人。太った人。色の黒い人。
会場を埋めた様々な人たちを一人ひとり見つめているうちに、「ああ、そいだ!」と思い至った。
私は、この人たちの、誰でもあり得たのだ。「今、ここ」にいるこの私ではなく、他の誰の人生を歩むことも、あり得たのだ。
自分とその人たちの人生が入れ替わるということを想像してみる。そうしたら、私は、全く異なる人を自分の父であり、母であると思って育つだろう。違った家庭を自らの母胎として愛し、疎[うと]み、そしてやがて感謝するのだろう。かけ離れた資質を持ち、その資質の限定の中で、人生を懸命に生きていくのだろう。学校の勉強ができなくて苦労し、あるいはスポーツ万能で女の子からきぁあと言われ、あるいは「この子は器量が悪いから苦労するね」などと親戚の性格の悪いおばさんから言われ、傷つき、それでも仲間たちに支えられ生きていくのだろう。
今の私には想像もできないような人と出会い、結ばれ、人生のパートナーと決めるのだろう。生活の苦労をし、思わぬことで報われ、小さな楽しみを抱いて生きていくのだろう。自分の情けなさに憤慨し、ささやかな夢を持ち、時には「もう生きていけない」と落ち込みながら、それでも前に進んでいくのだろう。
それがどのような人生であったとしても、もし、その中に投げ込まれてしまったら、そのような人生を自分の運命として、引き受けて生きていくしかないのだろう。
そして、もしそうなってしまったら、私は、それがどのような人生であったとしても、「ああ、この人生でよかった」と思えるだろう。心から愉快であると感じる。きっとそうに違いない。私はその瞬間、そう確信したのである。
才能にあふれ、美しい外見を持ち、お金持ちの家に生まれる。そのような「パーフェクトな人生」だけが楽しいのではない。才能もなく、外見もぱっとせず、貧乏だとしても、そんな人生にも必ずや「どうなるかわからない」という偶有性は訪れる。生の偶有性は、どんな人生にも平等にあるのだ。
金持ちがシャンパンで乾杯する楽しさと、長い労働の後でカップ酒でささやかに祝う楽しさと、楽しさにおいて果たして差があるか。企業どうしの合併をしかけて、成功すれば何十億の利益だと胸を膨らませる楽しさと、うどん屋の親父が最近客の入りが少し良いようだとうれしく思う楽しさと、偶有性の喜びにおいて違いがあるか。
絶世の美人に生まれるなかったとしても、その平凡な器量を愛してくれる心の温かい人が現れたとしたら、その時の天にも昇る気持ちに上下があるはずがない。
自分の人生で与えられたものの中でやりくりする楽しさ。不安の中に甘い希望をかみ分ける楽しさ。そのような人生の喜びに、格差も勝ち組も負け組もあるはずがない。
ある日、大学の公開講座に集った人たちの顔を一つひとつ眺めて、「この人たちの誰と入れ替わったとしても、私は人生を楽しいと思える」と確信した瞬間。その時胸の中にわき起こったざわめきを私は忘れることができない。自分の存在が根底から揺らぐような、それでいて無限の希望がわいてくるような、そんな力強い何かが私の中にずっと潜んでいた。
夕暮れの街で、自分を包んでいる関係性が解[ほぐ]れていく。自分がどこから来てどこへ流れて行くのか。何を後生大事に抱えていくのか。如何に糊口を凌いでいくのか。どんな夢を抱くのか。何をおそれるのか。そんなことの全てが揺らぎ、生きるということの偶有性が露[あらわ]になる時「生きている!」と最も強く確信することができる。
一体何故なのか。その根本的な理由がわからないままに私たちは生まれ、そして死んでいく。考えようによっては限りなく哀れな私たちの人生。しかし、そんなささやかな人生の最も深き喜びは、この先どうなるかわからないという不安にこそ由来する。不安の中に生まれ、不安の中に死んでいく。それで良いと思えば、人生はきっと私たちを抱きしめてくれる。