「一〇〇〇回目の敗戦 - 加藤一二三」08年版ベスト・エッセイ集 から

f:id:nprtheeconomistworld:20200813082720j:plain


「一〇〇〇回目の敗戦 - 加藤一二三」08年版ベスト・エッセイ集 から

昭和二十九年、十四歳でプロ棋士(四段)となってから五十三年。八月二十二日に私が通算一〇〇〇回目の敗戦を喫したことはさまざまなメディアで報じられたが、その反響の大きさにわがことながら驚いている。勝負師ならば勝ったときにこそニュースになるものだろうが、平成元年に一〇〇〇勝、平成十三年に一二〇〇勝をあげたときもこれほどの騒ぎにならなかったし、娘の知人からは「おめでとうございます」という連絡まで頂戴した。
複雑な気分だが、将棋界ではもちろん初めてだし、私に一〇〇〇個目の黒星を付けた戸部誠四段は二十一歳で、孫と同世代だ。また、一年に九十番戦う相撲界でも、引退した寺尾関の九三八敗が最多だと聞くと、ずいぶん長く現役として第一線を張ってきたものだと感慨を覚える。二十五年前、四十二歳で宿願の名人位に就いたのはついこの間のような気もするのだが、私を支えつづけてくれた家族にあらためて感謝したい。
振り返れば、印象に強く刻まれているいくつかの敗戦がある。
妻に「つらかった」といわせてしまったのは平成十一年、二十連敗を記録したとき。彼女は最近になって、「どうしたらいいか、分からなかった」と漏らしていたが、勉強を怠って負けていたわけではないし、対局用の背広を変えるとか、験[げん]をかつぐようなこともしなかった。「次は勝てる」と楽観的な気持ちでいたのが効を奏したのか、二十一戦目でスランプを脱し、通算三十四期目となるA級の座を守ることもできた。
敗戦のあと、ある「予感」を覚えたことも二回ほどある。
最初は、昭和四十三年、大山康晴さんに挑戦した第七期十段戦七番勝負(四勝先取)第二局。第一局に続いて敗れ、星勘定は厳しくなったのだが、打ち上げで関係者と談笑しているうち、なぜだか「この勝負は勝てる」という思いが湧いてきた。第四局では総計七時間に及ぶ長考の末に絶妙手を発見するなど、心身ともに充実しており、予感通りに初めてのタイトルを逆転で獲得することができた。
二度目は、昭和四十八年、中原誠さんと戦った名人戦七番勝負のあとのことである。このとき私は一勝もできず、四連敗で敗退した。中原さんのような作戦巧者に対抗するには、将棋の切る味を増さなければならないと悟る契機となった勝負だったが、シリーズ終了後、洗礼を受けた教会でミサに出席している際に「今回はだめだったが、いつか名人になれる」という確信が生まれたのだった。この九年後、私は中原名人を破り、三度目の挑戦で大願を果たすこととなる。
一三〇〇近い勝局の中でも、やはりこの昭和五十七年名人戦最終局の記憶がもっとも鮮烈だ。
千日手持将棋(引き分け)を含めると計十局を数えた死闘の決着を前に、旧約聖書の「闘いに出るときは勇気をもって戦え」「相手の前で弱気を出してはいけない」「慌てないで落ち着いて戦え」という教えを胸に私は果敢に戦った。
長考派の私も、時間に追われて慌てないよう、決断を早めに下すことを心掛けたのだが、最終盤で持ち時間が残り二分になっても勝ち筋が発見できない。残り一分となり、「また出直しか」と諦めかけた瞬間、直感では盲点になる手が閃いた。
このときに私が発した「あ、そうか」という叫びは、決戦が行われていた将棋会館中に響きわたったと後で聞かされた。
あれから二十五年。私には子供が四人、孫が四人いるが、対局に向かう闘志は、まったく変わっていない。デビュー戦以来、升田幸三さん、大山さんといった先輩がた、最大の好敵手だった中原さん、米長邦雄さん、世代が下の谷川浩司さん、羽生善治さんたちと熱戦を繰り広げてきたが、盤を前にすれば、没入することはいつの時代も同じである。一〇〇〇回も負けているのだから、反省して相手を見ながら戦法を選ぶような老獪さがあってもいいのかもしれないが、いまさらスタイルを変えるつもりもない。流行の序盤戦術を付け焼き刃で研究するより、新鮮な気持ちで対局に向かったほうが望ましい結果が出るように思っている。
私は今年、六十七歳を迎えたが、具体的な目標を立てることが重要だと考えるようになった。毎週日曜日に放送されているNHK杯トーナメントで、私は史上最多の七回優勝を果たしているのだが、この記録を八回に伸ばしたいというのが、いまの願いである。