「齢をとるほどに桜に近づく - 赤瀬川原平」文春文庫 04年版ベスト・エッセイ集 から

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「齢をとるほどに桜に近づく - 赤瀬川原平」文春文庫 04年版ベスト・エッセイ集 から

季節がめぐって花を見る楽しみというのは、梅、菊、菖蒲、牡丹などいろいろあるが、桜はやはり別格である。ふつうお花見といえば、その花は桜のことをいうわけで、そのお花見には酒と弁当がつきものである。
じつはこの酒と弁当というのが重要で、梅の場合は酒を飲むには寒すぎる。浮世絵にあるように、お供の者がお燗した酒の徳利を持ってついてきてくれればまだしも、いまの世の中でそんなことはムリだ。
寒いとか暑いだけでなく、花の気分というのもある。菊を見ながら酒といっても、何だか飲む前から醒めている感じだし、牡丹とか菖蒲といっても、花は見事ですねえ、でも酒はまあ別の所で、ということになりそうだ。
やはりホロ酔い気分のお花見となると、その花は桜に限る。昔からそう決っているわけで、決っていなくても、満開の桜を見るとその下で酒の一滴でも飲みたくなってくる。不思議なものだ。
でもこれはある程度齢[とし]のいった者の意見ではないだろうか。若いころはお花見なんてしようともおもわなかった。ぼくの場合。
貧しかったこともある。ぼくでなくても、昔の若者は貧しくて余裕がなかった。お花見をする時間があるなら、もっと何か仕事をしたり、運動をしたり、何か深刻に考えたりしていたかった。お花見なんて、そんな天下泰平なことをしていられないよ、という気持だった。時代のせいもあるのかな。
いや時代もあるが、やはり年齢だと思う。お花見なんて、若者にはムリなんじゃなかろうか。
若者には未来が見えていない。だから必要以上に悩んだり、怒ったりして、お花見どころではない。でも年寄には未来が見えている。未来も結局は現在なんだということを知っている。齢をとればとるほど未来がはっきり見えてきて、つまりこの世の出口が手探りながら漠然とわかってきて、そうすると現在の価値というものが、日増しに増して、いま咲いている満開の桜を放置していられなくなるのではないか。満開の桜を見殺しにはできなくなるのではないか。
いちど吉野の桜を見に行ったことがあるが、そのときつくづくそう思った。桜というのは繊細で、微妙で、地味で、自分から近寄らない限り見えないものじゃないかと。自分から近寄るとことは、じつは齢をとっていくことで、齢をとるほどに、繊細で、微妙で、地味なものに近寄っていく。
それまでにも齢をとりはじめて、お花見をはじめていた。中年に足を踏み入れたころだ。でも考えてみたらそれは近所の公園の桜で、つまり都会の桜で、その種類はほとんどが染井吉野だった。江戸後期のころに染井の植木職人が掛け合わせて創り出した種類で、桜の花だけがまず咲く。満開になり、散りはじめてから青い葉が出てきて、そうなると、もう葉桜になってしまったといって、人々の足が遠のく。
だから満開のときは混じり気のない花だけの桜で、それでもひらひらと散りそうな桜にしびれて、お花見をはじめていたのだ。毎年お花見の場所をあちこち変えて楽しんではいたのだが、しかし奈良の吉野の山桜ということを古[いにしえ]からの話で聞くわけで、都会のお花見をしながら齢をとって、未来もかなり見えてきて、ひとつ吉野の桜を見に行こうと、行ってみたのだった。

バスで吉野の山の上の方まで行って、ゆらゆらと散歩しなから下ってきたのだけど、都会の桜を見ていた目には、どうも地味で、吉野の桜って、それほどでもないな、と思った。それほどの「それ」とは、たぶん混じり気のない桜の強さのことで、だからその弱さにちょっとがっかりしていたのだ。
ところがそれは結論ではなく、ゆらゆらと道を曲がるたびに景色が変り、景色に混じり咲く桜を見ながら、麓に下りてくるころにはまるで想いが変っていた。都会の混じり気のない桜に比べて、この山の山桜は地味なものだけど、その地味具合に圧倒されていた。地味だから「圧倒」という言葉はふさわしくないのだけど、何といえばいいのだろうか。とにかく大きいのだ。東京の、公園の、染井吉野の桜に比べて、この山の山桜は柔らかい。あらためて、東京の桜は少々人工的だなと思った。山桜は葉っぱと混じって咲いて、桜の花の純度は低いけど、その低さがいい。混じり桜だから地味だけど。その地味のなかに桜が濃密に溶け込んでいる。とにかく鷹揚である。
この山を下る間に、一段と齢をとったのかもしれないと思った。濃密に齢をとったのかもしれない。吉野の山は、黙っているけど、老人力の山じゃないのか。
別に神格化するつもりはない。まあ東京の公園の染井吉野の桜でも、桜は好きだ。混じり気のない花だけの桜、というコンセプトは人工的だけど、でも都会の桜の場合は酔っ払いやその他の混じり気がある。花は純粋志向で固いけど、混じるはずの葉っぱの代りを、酔っ払いやその他の都市の夾雑物が担っている。
東京の上野公園でのお花見もしたことがある。あそこはお花見の雑踏のいちばん凄いところで、場所取りも大変だったが、とにかく一角に割り込んでだんだん酔いも回り、その時はさらに人工的な夜桜であったが、宴席の敷物の外には飲み干した一升ビンやビールビンが討ち死にしたみたいに、ばらばらと横倒しに並んでいく。そうするとそれをヨソのオバさんが、そうっと一本、また一本と拾い上げていく。はじめは誰だろう、公園の管理のオバさん?とか思っていたけど、そんなことはない。空きビンを回収して小銭を稼ぐ、そういうオバさんらしい。いやオジさんだったかもしれない。なるほどと、そんなことをぼんやり考えながら、これもある種の山桜だと思った。都会にも山桜は咲いている。吉野の山桜とはちょっと違うけど。
ひらひらと散りはじめた満開の桜の下で、ホロ酔いを楽しむ。酒を飲まぬ人でも、桜にはホロ酔いの要素があるわけで、それにみんな、ぼくも含めて、どうして引かれるのだろうか。
以前そんなことを考えながら、そういえば日本には、似たものに雪見酒があるなと思った。白く降り積っていく雪を見ながら、ちびちびと燗の酒を楽しむ。もちろんその場合は雪見障子の内側で、体は暖まりながらである。あれには外の寒気を思うことで、内の暖かいしあわせを倍に感じる、という効果もあるのだろう。
でも桜と雪と、全面真っ白に輝くあの感じは似ているのである。
桜は春だけど、あれは春にくい込んできた雪ではないのか。しんしんと降り積ってすべてをフリーズして閉じ込めてしまう雪と、似たようなものが、さあこれからという季節の春にあらわれる。そこに何か感じ入るものがあるのではないか。その感じに舞い上がって、この世の終りが春にはじまるみたいな、そういうスペクタクルのお花見にひたるのではないか。
そんなものを、桜は急に見せてはくれない。まあ見たところ、桜は春に咲くというだけのことである。それがしかし齢をとると、ゆっくりと桜に近寄って行くことになり、そうするとふと、散りゆく桜の花びらが雪に変り、それが染井吉野だったりしたら、全山雪山の真っ白である。草木もミミズもみんな下に沈んで、純白あるのみ。
昔から満開の桜に死のイメージがいろいろと重ねられているけど、それはそういうことかもしれないと思うのである。