「残酷な間引き(抜書) - 山崎ナオコーラ」筑摩書房 太陽がもったいない から

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「残酷な間引き(抜書) - 山崎ナオコーラ筑摩書房 太陽がもったいない から

弱肉強食という言葉があるが、この世はまさにそのようにして成り立っている。個人の幸せではなく、世界全体の幸せを求めようとするとき、個人の行動は変わっていく。宮沢賢治の童話において、他の生き物を襲って生きてきたサソリが、他の生き物に自分が襲われたときについ逃げてしまったことを後悔し、自分の体を他の誰かの役に立ててもらう形で死にたかったと願うように。自分の死体を誰かの役に立ててもらいたいと思うようになる。
弱肉強食といっても、生物の世界における強さは、大きさや繁殖力のことばかりではない。たとえば、人間が「雑草」と呼ぶ草があり、旺盛な繁殖力で増えていくが、人間に引っこ抜かれる。人間が美しいと思ったり、おいしいと感じたりする植物の方が、街では生き残り易い。
子どものころ草むしりをしながら、
「なんで雑草は抜くの?命はどれも大切なんじゃないの?」
と親に尋ねたものだが、大人になるとその不思議さは薄まった。大きく茂ってからでは抜き難いので、小さいうちに引っこ抜く。大事に育てたいと思っている花や野菜の方を優先したいから、放っていても増え、勝手におおきくなって場所を取る、雑魚キャラの草はどんどん排除する。きゅっと痛みは感じつつも、割り切ってしまうようだ。
だが、間引きにはなかなか慣れない。
種を蒔くとき、一粒の種を確実に一つの苗に育てる、というやり方をする人は稀だろう。多めに蒔いて間引きをするのが一般的な栽培法だ。発芽率百パーセントの種なんてないし、芽が出たとしても、なんの問題もなく花が咲くまで大きくなれる確率は決して高くない。五粒蒔いて、三つ芽が出たら、ひとつ残して、二つの眼は間引く。
辛いのは、間引きが草むしりと違い、抜かれる草と、抜かれない草に差異がないことだ。同じ種類なのだから。
「どうしてこっちの芽は抜いて、あっちは残すのだろう」
間引きをしながら、自問自答する。生存率を上げたいので、弱そうなものを選んで間引く。その時点で大きく育っている方を残すわけだが、これまでの経験から、小さかった苗があとから他を追い抜いて大きく育つこともあると知っている。
以前、俳優で歌手の岡田准一さんのラジオ番組に出演させていただき、「最近はまっていることありますか?」という問いに「ベランダ栽培です」と答えたことがある。すると、すぐに岡田さんが、「いいですね。でも、僕は間引きが苦手で......」と返してきたので、さすが、人間というものをわかっていらっしゃるなあ、と驚いた。
園芸が好き、というのを他の人に話すと、命を慈しむ、愛情込めて育てる、というイメージで捉えられがちで、「和みますよね」といった返しをされることが多いのだが、実際には残酷さも持ち合わせていなければ、遂行できない。植物を育てていて、一番引っかかるのが、この間引きだ。同じ種類のものの中からひとつだけを選んで大事にし、他を捨てる。こちらの力で生命活動を開始させたのに、生き始めたら引っこ抜く。すごく理不尽で残酷極まりない行為だ。これを正当化する論理はまったく思いつかない。
山岸凉子さんによる『鬼』という漫画がある。天保の大飢饉のことが描かれたものだ。凶作のために飢え苦しむ村人たちが、悩んだあげくに決めたのは、それぞれの家にひとり息子だけを残すことだった。深い穴を掘って、次男や三男たちを集めてそこに捨てる。親たちは、自分の子どもに手をかける勇気がなく、穴に閉じ込めることしたかできなかったのだ。捨てられた子どもたちは暗い穴の中で飢餓に苦しみ、やがて順番に死んでいく他の子どもの、その死体を食べるしかなくなってしまう。その歴史に、現代の大学生たちが遭遇する、というストーリーで、「親を恨みたければ恨めばいいと思うよ」「人は生きられる可能性があるかぎり、生きる権利があるんだ」といった科白に救いを見出せるのだが......。人間の業や、世界の複雑さがのしかかってきて、私は最後のページで、この世で生きるというのはなんて大変なことなんだ、と思った。
文学において、「兄弟の中で誰が生き残るか」というのは、繰り返し描かれてきたテーマだ。カインとアベルの兄弟殺しに始まり、兄弟間の嫉妬や憎しみ、そして競争は、時代を超えて続いてきた。
生き死にというではなくても、「兄弟の誰が家を相続するか」「誰が父親の跡を継ぐか」「誰が親の愛情をたくさん受けられるか」といった問題は、いつの時代の読者も注目してきた題目だ。紫式部の『源氏物語』でも、第一部、第二部の主人公の光源氏は、天皇の最愛の息子でありながら、母方の後ろ盾がないために、勢力のある弘徽殿[こきでん]の女御の息子に敗れ、東宮にはなれない。そこから始まるからこそ、ただの雑多な恋愛ものではなく、大きなうねりのある物語になっている。第三部の主人公の薫大将は父親を継ぐ立場てあるが、自分の出生の秘密を知り、その資格がないと悩む。その隣りに、血統の良い匂宮[におうのみや]がライバルとして配置され、やはり「負けの美学」が物語に充満する。
つまり、サバイバルに負けた者が文学を作ってきたといっても過言ではない。
間引きは理不尽で残酷なものだ。しかし、植物界にも、動物界にも、人間界にも、残念ながら間引きの概念がある。この残酷な世界に対峙して、新たな価値観をどう作っていけるか探るのが、作家の仕事なのかもしれない。