「くりやのくりごと (あとがきに代えて) - 林望」小学館 リンボウ先生家事を論ず から

f:id:nprtheeconomistworld:20200830083737j:plain



くりやは、いやもっと当たり前にいおう、台所ってものは、どうしたって矛盾した存在だ。そもそも料理というものは、沢山の素材や調味料や調理道具を必要とする。それが、たとえば、和食の割烹の厨房だったら、和式の調理道具と調味料があれば事足りるだろう。イタリア料理だったら、いくつかのフライパンとソースパン、それに大きな鍋といったあたり、そこへオリーブ油やバター、そしつスパイス類と胡椒で済んでしまう。しかし、家庭料理というものは、和洋中伊となんでも作らなくちゃならない。しかも、火口は限られ、火力は弱く、調理台は狭い、流しは小さい、助手はいない、ないない尽しのなかで、奮闘を余儀なくされるのだ。
そうしたら、どうしたって、台所は散らかるに決まっている。また、各種の調味料を、使いやすく手許に置いておくならば、そこらじゅう調味料だらけになってしまうだろう。鍋だってフライパンだって、専門食堂の厨房のようには形が揃わない。このために、どんな美しい台所を作ったとしても、半年、一年とたつうちには、その台所に生活の垢が付いてくる。換気扇の羽根なんかは、すぐ油でべたべたになるし......。
しかし、それらをせっせと磨き立てたりしていたら、時間と労力はいくらあってもたりはしない。共働きの夫婦も多いのだ。それを、前世紀的な「家事労働」の姿で取り組んでいたら、主婦というものは、無料の家政婦に異ならぬ。では、料理なんかしないで、いつも外食とコンビニ物ばかり、となったら、「家庭」だの「家庭料理」なんてもの自体が崩壊の一途を辿るであろう。家庭を家庭らしく営まんか、台所は混沌の巷と化し、台所を展示場のごとく整頓せんか、家庭は作り物のごとく索漠たらざるをえぬ。多かれ少なかれ、主婦たちは、この二律背反のなかに、ひそかに溜め息をつくことが多いのではないかと思惟[しい]される。もう一度「台所」を見回して、熟慮を巡らしてみようじゃないか。
そうしたら、ああ、こんな時間の無駄をしていた、そうかこれほど労力を損していた、とそういう経験をするに違いない。そのために、私は、あえて憎まれ役、小言幸兵衛の役回りを買って出た、とまあそういうわけである。
台所というものは、散らかっていたっていいのである。いや、家の中が過度に磨き立てられて塵一つ落ちていないってのこそ、却って心が休まらない。適当に(衛生上差し支えのない程度に)散らかっていて、そこに温かい人間の「におい」が横?している、それこそ、スイートホームというものの大切な要件である。まるで住宅産業のコマーシャルのように、「優しい、素敵な、そして裕福な人格者のお父さん」と「モデルのように美しく天使のように温順なお母さん」と「利発で親孝行でいつも青空を見上げているような子供たち」から成っている「家庭」、そしてアメリカの金持ちのような瀟洒な住宅に住み......、待て待て、そんな訳はないじゃないか、実際は、はたと正気に返って考えてみなければなるまいに、そんな極楽みたいな「家庭」が実在すると思っているお目出たさ。そこから、「現実の自分」を眺めてみれば、それは不満ばかり多くなるのも道理だ。けれどもね、ほんとうは、家庭ってのは、雑然としていて、不満だの矛盾だのが渦巻いていて、だから「生きている家庭」なのだ。万事はそこからの発想だ。
その現実としての「生きている家庭」に立脚しながら、私はここに、非理想論的家事論を書いてみた。決して決して、料理にも家事にも「こだわりをもつ」リンボウが、理想的な家事や家庭について、あげつらっているのではない(私はこの「こだわって」という俗悪な表現が大嫌いだ。そういうことを恥ずかしげもなく言う軽薄なテレビや雑誌の人間たちを、私は心底軽蔑する)。
そうじゃなくて、毎日ひとりの家庭人として家事に勤しんでいる現実としての私が、その雑然たる厨房の一角に立って、目を皿のようにして、その家事のあるいは家庭の諸問題を良く観察し、つくづくと考え直してみた、これは言ってみれば、そういう本である。賛成の人も反対の人もあってよい。それぞれが信ずる最善の方法というものも当然あるだろう。しかし、大切なことは、その自分のやっていることを、もういちど客観的合理的に見直してみることである。道は、遠きにあるのではない。まず足下を見よ、そこに、おのずから道は開けているのである。