「延命のための人工呼吸器の装着 - 平山正実」はじまりの死生学 から

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「延命のための人工呼吸器の装着 - 平山正実」はじまりの死生学 から

筋萎縮性側索硬化症(ALS)は神経難病のひとつである。脳の命令を筋肉に伝える運動ニューロンが次々と変性し、人体の抹消の部分から運動、嚥下、発声、最後には呼吸が徐々に困難になり最終的には死に至る。知覚神経や自律神経は侵されないために、感覚や心臓、そして消化器は、原則として最後まで機能し続ける。そのために、運動や発声や呼吸が困難になっても、意識は鮮明であり、強い不安感を引き起こす。患者の八〇パーセントは、発症後三年から五年すると呼吸不全に至るといわれるが、人工呼吸器を装着すれば延命が可能である。しかし、最終的には呼吸麻痺に陥り必ず死に至る。患者は治療する方法がない難病であるということを知っているので、常に死と向き合うことを余儀なくされており、その意味では、非常に悲惨な病気である。
この病気は一八六九年にシャルコー(Charcot)によって記載されて以来、様々な学者が研究を重ねてきたが、いまだにその原因も治療法も見つかっていない。末期における人工呼吸器の装着が生死を分けることになるために、本人及び医療者は重大な決意をもってその選択に臨むことになる。日本におけるALS患者の人工呼吸器装着率は外国に比べて比較的高いといわれているが、その選択は延命に関する決断を要するものであり、現時点で呼吸器をつけるか否かという点になると、専門家の間でも結論は出ていない。
人工呼吸器をつけたほうがいいと考える人の多くは、意識が鮮明なまま、いつ呼吸ができなくなるのかといった死への不安や恐怖を解消させるために、早い時点で装着したほうがいいという。もうひとつの理由としては、人間は、自分ひとりで生きているわけではない。患者を愛する人がいて、その人が、患者に少しでも生きていてもらいたいと望む場合は、周囲の人々の期待に応えるためにも人工呼吸器を装着すべきであるという主張がある。
また、患者自身が、まだこの世で遣り残した仕事があるといったような使命感があるので死にたくないと考える人がいる。このような人には、人工呼吸器をつけることを決断する。また、何もしなければ死んでしまうという状況でいのちを自然に委ねるのではなく、現代の科学技術を十分に利用して少しでも長く生きるべきであり、いのちを自分の選択でどうのこうと判断するべきではないと考える人もいる。
このように人工呼吸器の装着を決断する人がいる一方で、呼吸不全になり死が迫っても人工呼吸器をつけたくないと考える人も少なくない。そのもっとも大きな理由は、このまま生きていても家族に迷惑をかけるというものである。事実、人工呼吸器を装着して生き延びれば、体位交換や痰の吸引など二四時間介護が必要になる。このような人は、家族の負担になりたくないという気遣いから、人工呼吸器をつけてまで生きたくないと考える。実際こういう状態になると、家族が人工呼吸器の装着することに反対するケースもあるといわれている。
また、呼吸器を装着すると、莫大なお金がかかるのではないかといった不安から、人工呼吸器をつけてまで生きたくないという人もいる。いまの日本の現状では、人工呼吸器を装着することができる施設が少ないという社会的問題もある。家族の介護負担が大きくなるばかりではなくて、それを支える医療機関や施設、医療者などの社会的資源が非常に少ないことも問題である。
人生観、死生観、生命観から、人工呼吸器をつけないことを選択する人もいる。このような人は、人間が機械につながれて生きていることに対して抵抗感をもっている。自分の死生観から考えて、呼吸器をつけることは不自然であり、人間的ではない。自然に呼吸がでかなくなったときには死ぬのが自然だと考えている。
このように、人間の生命を機械によって管理し、その結果として延命が可能になったとしても、プラスの要因とマイナスの要因があり考え方が分かれてくる。すなわち分裂してくるのである。がんの告知に関して意見が分裂したように、ALSの場合も、科学の発達によって開発が可能になった人工呼吸器の装着をめぐって、はっきり白黒を分けることは難しい状態にある。善悪を知る知恵の木といのちの木の実を食べたことによって人間の目が開き、理性の働きによって医学が進歩した。その果実ともいうべき人工呼吸器の装着をめぐって意見が分かれ、その判断をめぐって人間の苦悩が増してきたということを、われわれはよく知らなくてはならないと思う。
人工呼吸器の選択は、生死にかかわる重大問題である。そこには死生観、価値観、宗教観、社会環境、生きがい、あるいは家族関係など、などさまざまな問題が介在していて、その意思決定は難しいものになる。そしてその決定は、決して白黒二分主義的にはっきり決断できるものではなく、さまざまな考え方が交じり合い、当事者も周囲の者もさまざまな苦しみや悲しみの中に突き落とされる。われわれは、当事者の事情や価値観を最優先させるか、家族、医療者の考えを重視するのか、難しい選択を迫られる。いずれにしても、患者、家族、医療者の信頼関係を崩さないように配慮しながら、十分な時間をかけ無理のない決断をするべきであろう。