2/2「浪華俗世の知恵 - 藤本義一」文春文庫 04年版ベスト・エッセイ集 から

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2/2「浪華俗世の知恵 - 藤本義一」文春文庫 04年版ベスト・エッセイ集 から
 
幼年期から少年期にかけて埋め込まれた知恵、特に金銭に関する知恵は容易に消えるものではない。やはり、商人の町大阪では、金銭に関する知恵が多い。
-貯めるのは金、使うのは銭[ぜに]。
同じ金額であっても、貯める時と使う時は呼称を変えろというのである。
「儲けるという字をよく見ろ。タテに二つ割ったなら“信”と“者”となる。これは信じ合う同士に真の儲けがあるということや。もし、そうでなかったなら、儲けるという字をタテに三つに割って考えろ。“イ[にんべん]”つまり自分や。次に“言[げん]”という言葉な。それに“者”という他人、客やな。儲けようと思う資本[もとで]の少ない商人は、自分と客の間に巧みに言葉を挟んだ奴が勝つということや」
凄じいまでの解釈だと思うが、これは真理であると大阪人の私は思うのだ。
といって、金を貯めることばかり考えている“吝[けち]”は商人仲間では爪はじきされるからこの点は十分に考えて行動した方がいいというのも父や父の仲間から何度も聞かされた。
また、
- 死んで花実[はなみ]が咲く。
という江戸の言葉を大阪人は昔から軽蔑していたゆうだ。切腹、殉死の美学は一切認めない風潮がある。
- 死んで花実が咲くのなら、墓所[はかしょ]はいつも花盛り。
などと付け加えて揶揄した。それでいて働くという言葉にも“傍[はた]”を“楽[らく]”にして生命を縮めても意味がないではないかという意見を持つ。
江戸時代の大阪の落首に、
世の中で寝るほど楽はなかりきに、知らぬ阿呆は起きて働く。
というのがあるのを見てもわかる。なにも他人のためにあくせく働くこともないではないかという気分で作られたものだろう。
働くのは傍[はた]を楽[らく]にする犠牲的精神で仕事に励むことだという解釈は、どうも後年になって仏典等の中から引用されたものらしい。
また、
- 損して得とれ。
これは得(利益)ばかりを考えて商いをしていると必ず損をするぞという諌[いさ]めの言葉であり、損を常に考えながら地道に商いをしていくと得に繋がるという意味である。車でいえば得はアクセルであり、損はブレーキというわけだ。高速道路を疾走している最中に、どちらが故障すれば恐しいかを考えろという箴言[しんげん]と思えばいい。ブレーキが効かなくなると激突するしかない。 
ところが、江戸期後半には、この - 損して得とれ - が 損して徳とれ - というのが正しいという説が生れる。自己犠牲を覚悟で徳行を積むのが人間の道だという。これは、おそらく道学者の誰かが無理に語呂合わせをしたのだろう。現実な生きる商人がこんなことを考えるわけがない。
私は中学一年の夏休みに終戦を迎えた。父は空襲で私財を失い、強度の神経衰弱(現在のうつ病)と栄養失調の果てに食が細くなり(拒食症)、そして肺病(結核)に罹[かか]った。精神的にも肉体的にも物質的にもボロボロの四十五歳だった。大阪府下の結核療養所の隔離病棟に入ったため、一年間は面会出来なかった。体重は十貫目(三十七・五キロ)で、私は八貫目(三十キロ)だった。生活のために母は衣類を食糧に換え、私は米軍キャンプと闇市をかけめぐり、それなりの収入を得て、毛布や砂糖を療養所に届けたが、隔離されている父とは面会が許されなかった。一度だけ看護婦さんから病床の父の伝言を聞いた記憶がある。
「人間死ぬ時は死ぬ。が、戦争が終ったから殺されることはない。死ぬのは納得出来るが殺されるのは納得出来ん死に方や」
といった意味のことだった。闇市で危い取引を手伝っているのを知っていたらしい。殺される状況はなるべく避けろといったのだ。クスリでも殺されるといっていたから、ヒロポン(覚せい剤)に手を出すなといっているのだと解釈した。
二年目に開放病棟に移った父と面会した。
大部屋の奥の窓際にいた父が手招きするので近付くと、急に軋[きし]むベッドに正座し、両手をついて息子に頭を下げた。瞬間、神経衰弱がさらに深くなったのかと絶望的になった。が、そうではなかった。スマン、スマンと小さな声で息子に詫び、こちらの頭を指した。
「そのお前の頭は金庫や。大学まで行ってくれ。授業料の安い、自転車で通学出来る大学へ行って、その頭という金庫の中に学問という財産を入れ、自由に運用して生きてくれ」
こういった内容のことをポツリポツリと低声[こごえ]でいった。五、六分を要したように思う。
「地位も名誉も財産も失った。従って、お前に失うものはなにもない」
帰り道、この言葉を幾度も頭の中で繰り返した。相当考えて纏めたものだろうと中学二年の頭でもわかった。
父のいった通りの公立大学に入り、父に報告すると、
「将来なにになるか考えてこい。十代では一日で考えられるものが二十代では一カ月かかり、三十代では一年かかり、四十代では五年かかり、五十代では十年かかって六十になる」
この計算方法は現在もどこからきたのかわからないが、決断を早く若い裡[うち]にしろという名言だと思う。
中学校の社会科教師の資格を取得したが、日本の雇用問題に疑問をもって、自分の好きな映画界の徒弟制度に入るといった時、
「うーん、中学の先生から映画の下働きか。どっちも資本[もとで]なしやから好きな方をやれ。人間、あの時にやっておいたらと悔むのが一番下手な人生や」 
といってくれたのである。
そこで、どちらかというと祖父のDNAに作用されて現在に至っている。