「樟の森 - 立松和平」エッセイ’ 91 から

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「樟の森 - 立松和平」エッセイ’ 91 から

山口県豊浦町小串の海岸には風と波とが吹き寄せていた。秋もそろそろ深まってくる頃である。日本海は日一日と荒れ、漁にでられる日も少なくなってくる。
漁港には漁船が舫[もや]ってあったが、人の影はない。今日は朝から働く日ではないと決め、漁師は家に閉じこもっているのだろうか。目だけをだす毛糸の帽子をかぶった漁師らしい背の高い男が歩いていたが、険しい目つきに声をかけるのもはばかられた。漁船同士が古タイヤを挟んでギシギシとこすれあっている。カモメが風に乗って空中に浮かんでいる。翼の角度をほんの少し変えるだけで、上昇も下降もし、一瞬のうち遠くに運ばれもする。
この海岸からほんの二、三キロ山のほうにはいったところに、川棚の樟[くす]の森がある。山は高くないのだが地形が細かく入り組んでいるせいか、風がない。海岸のような風があれば、こんな風景が見られるところであったのだ。

大楠の枝から枝の青あらし(山頭火)

放浪の吟遊詩人種田山頭火もこの樟の森の前に立ち、深い感動を覚えたに違いない。森と呼ばれているが、たった一本の樟である。幹は一本なのだが、枝が横へ横へとひろがり、まるで何本もの樹が絡んでいるようにも見える。一本の木だということのほいが信じられないであろう。
山頭火は実際に枝や葉が騒ぐ嵐を見たのではないと思う。枝ぶりが見事というよりも、これほどに巨大な命の賑わいに圧倒されたのではないだろうか。そんな驚きの表現として、青あらしといったのである。命が波打つさまとしては絶妙の表現である。
おそらく日本一の樟であろう。確証はないのだが、私はそう信じたい。世の中には上には上が必ずあるものだが、旅から旅をつづける私としても、これほど見事な樹に出会うことはめったにない。どれほど大きなものか、具体的なデータを書いてみよう。
幹まわり、十一メートル、高さ、二十一メートル。
十八本の枝を四方にのばし、最も長いもの二十七メートル。
一株の根張は根元を中心にして二十二平方メートル。
霊馬神とも呼ばれ、三月二十八日を祭日とし、刃物などで傷つけず大切にしてきたとある。霊馬神の縁起としては、戦国大名大内義隆が家臣の陶晴賢に謀反を起こされ、山口城は落城し、川棚ケ原にて敗れ、芦山の麓にてことごとく討死した。愛馬も深傷で倒れ、その頃すでに鬱蒼としていた樟の下に埋葬したとある。
地上で最も大きな生物は樹木である。最も長寿なのも樹木である。人間を遥かに超えた生命を持っている樹に神霊を見るのは、ごく自然な感情である。天に一番近いので、一番はじめに神様が降りてくる。天との境界線が大樹である。多くの神社に神木としての大樹があるのは、神様の通り道をさし示すためなのだ。
 
花というものがある。ハナは端[はな]で、先端という意味だ。人間からの先端、神様に限りなく近いものという意味である。ハナは現在では花であるが、かつては樟や杉や檜や槇や樒などの樹木であった。榊を神前に捧げるのはその名残りだといわれている。
ついでに書いておくが、花を病人にあげるのは日本の古代からの習慣にはなかった。まして鉢植えの花は根がついているから、寝つくを連想させたので、禁忌であったのだ。
樟の森に話を戻そう。枝の下に立っているだけで、嵐がきそうな感じがする。木の葉のすれあう音の間に、小鳥の声がする。樟は樟脳の原料で、虫除けになるのである。樹全体がいい香りに包まれている。一本の樹がさながらひとつの宇宙を形成している。
先日テレビで放映していたひとつのシーンを私は思い出した。ゴルフ場のグリーンに千葉の農家の庭先にある樟の古木を移植する話である。もともと山林だった土地から樹をほとんど根こそぎに抜き、土を掘ったり埋めたりして地形を変え、地中には排水溝を設備し、名木を買って運んで植える。
樟を買うために何人もの業者が農家を訪ね、そのたびに値が釣り上げられていく。結局はゴルフ場に買われていくのである。庭の樟が根こそぎにされてクレーンに吊られた時、中年男の農家の主人はいいところへ嫁にいくのだからと笑顔でいい、老婦人は身が引き裂かれるようだと泣き顔でいう。三百年はたっている樟の大樹はこうして金に換算されてしまったのである。
庭に樟があれば、風を呼んで涼しい。日陰にもなる。鳥もやってくる。樟は毒消しの作用があるので、悪い虫も寄りつかない。毎日の風景が美しくなる。数えきれないほどの効用があるのに、いくばくかの金に換えてしまったのである。喪失してからそのものの価値に気づくことがあまりにも多いのだ。
川棚の樟の森ほどにもなれば、誰も伐ろうとは思わないに違いない。こざかしい人間の行為など遥かに超越した存在感をもってそこにある。
青あらしの下から、私はいつまでも立ち去りかねていた。いくら旅を重ねているこの身であっても、ここにはもうくる機会はないかもしれないと思えたからだ。立ったままの私の横を、老婦人が陰のようにすり抜けていった。老婦人は頬かぶりしていた手拭いをはずすと、地面にぺたりと正座をし、それから樟の森に向かって頭を下げた。美しい光景であった。