「検査は身体に悪い - 土屋賢二」文春文庫 紅茶を注文する方法 から

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「検査は身体に悪い - 土屋賢二」文春文庫 紅茶を注文する方法 から
 
人間は、自分がどんな人間であるかに強い興味を示すものだ。自分の容姿を鏡や体重計で仔細に点検したり、自分にどんな才能があり、どんな運命をたどるが、などを知りたがるが、それも若いうちだけだ。
年をとると、もっと重要なことがあることに気づき、鏡を見るよりもスポーツ新聞を読む方を選ぶようになる。
実際、中高年の者が自分を点検してもロクなことはない。点検の結果判明するのは、本人が思っている以上に、才能がなく、他人に嫌われ、病気が進み、この先すべてが悪化する一方だということぐらいだ。
こういう事実を発見してどこが面白いのであろうか。人間ドックに進んで入る人の気が知れない。検査しなくても悪いところがあるに決まっているのだ。
それをわざわざ検査で探すのは、一カ月放置していた牛乳がどうなっているかを確認するようなものだ。それを確認したがるだけで異常と診断してもいいくらいだ。
だいたい、洗濯機でもパソコンでも、点検すると調子がさらに悪くなることは、科学を知らない人間ならだれでも認めるところだ。
わたしのように身体が弱い上に繊細な人間は、健康診断が苦手だ。健康診断を受けるたびに身体が弱っていくような気がする。検査結果が怖い上に、検査で何をされるか分からないという心理的負担が大きいのだ。
血液検査で血を何リットルも抜き取られるのではないか、血圧を測るふりをしてカテーテルで血を抜き取られるのではないか、X線写真をとるふりをして、財布を抜き取られるのではないか、など不安がつきない。
この技術革新の時代に、検査の仕方が一向に進歩しないのも納得できない。空港の金属探知機のような枠を通るだけで、血糖値から家族の病気の有無まで瞬時に診断できるようにならないものだろうか。そして異常が見つかったら、自動的にデータを正常値に修正してカルテに印刷するぐらいできそうなものだ。
検査技術がない時代はよかった。「具合はどうですか」の問診だけですんでいたのだ。
職場の定期健康診断を受けるのは、いつものように憂鬱だった。検査は血圧、胸部X線、心電図、内科検診、尿検査、血液検査だ。学生と違い、血液検査と尿検査がある。血液も尿も中高年の弱点が現れるところだ。露骨に弱点ばかりを狙って恥ずかしくないのだろうか。
検査当日、自分の身体の声に耳を傾けてみると、頭痛の他、動脈硬化と胃ガンと肺ガンと難聴の自覚症状があり、生きているのが不思議なほど、あらゆるところが異常を訴えている。日ごろ、異常な人間関係に注意を奪われていて気づかなかったが、実際は内憂外患状態だ。
この段階で打てる手は少ない。尿検査に備えて、十分に水分をとる程度だ。尿が出ないと、異常と判断されて無理やり管を挿入されるかもしれない。
水分をとりすぎるのもよくないから注意が必要だ。以前、水分をとりすぎて我慢しきれず、検査前にトイレで無駄に出してしまったことがあるのだ。
頭痛薬を飲むのはひかえた。コーラもひかえた。コールタールも砒素もひかえた。
検査に行くと紙コップと試験紙を渡された。指示された通りに試験紙を尿につけて差し出すと、異常なしとの診断だった。
よかった。実は、よっぽど試験紙をなめて出そうかと思ったのだ。もしそうしていたら、口の中に残ったカレーライスの成分が検出されて、非常に特殊な病気と判断されていたかもしれない。
水につけようかとも考えたが、大学の水も危ない。ネズミの死骸の成分をはじめ、ダイオキシントリハロメタン、ユウバリメロンなどが検出される恐れがある。そうなったら、隔離もしくは駆除もしくは収穫されていただろう。
血液検査では大量の血液を抜き取られ、意識が遠のくような気がした。何時間前に食事をしたかと聞かれる。食事を作ったのはだれか、と聞かれなかったのが不可解だった。
結局、検査では失神もせず、財布も無事だった。だが、検査の結果が出たら、食事制限を強いられるに違いない。好きな物を食べられるのは今のうちだ。そう考えて、検査以来好きなものを貪欲に食べている。そのせいか、この二、三日体調が悪い。