2/3「ラブミー農場の四季 - 深沢七郎」文春文庫 余禄の人生 から

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2/3「ラブミー農場の四季 - 深沢七郎」文春文庫 余禄の人生 から
 
こんなふうに私の畑の花の名を並べると、なんとなく花栽培業のように思われるが、実際には畑の中に、ポツン、ポツンと、ときどきのその季節に咲くだけである。畑の花というものになってしまうのだろう。雑草の中に咲く花たちは、いつか、畑の中の一員となっているのだ。私も、畑の中に生きているだけだが、物ごし、言葉づかい、皮膚の色もいつか百姓になっているのではないだろうか。ガンコな百姓ジジイに私はいまなっている。ほんとは、これはスバラしいことなのだが、ラブミー農場は都会人も来るのだから、都会の人はまごついてしまうだろう。百姓の強さは人間たちを怖れない、唯我独尊でいられることだろう。大げさに言えば五反百姓でも一国一城のあるじという気モチかもしれない。
私の畑の花たちはほとんど偶然のように手に入ったもので、求めたのは花菖蒲ほか僅かだ。たいがい「いいですねえ、うちでも植えたいですね」などと言って貰った花の根わけなのだ。梅や桃やブドーの苗は買い入れたものだが、これは農業のつもりだった。自分の食料用しか栽培しないのに農業などとは、まことにつごうのよい言葉だと思う。ブドーは、山梨の生まれなのだが、なかなかよい実が成らない。消毒も、袋もかけないでただ実るのを食べるだけである。ブドーの花は綿ボコリの房みたいなものだが、甘い匂いがブドーの花の咲いたのを知らせるようだ。
さて、野菜たちの花々は、春になると一せいに咲きだす。菜の花の咲くのは食べきれなかったからで、ダイコン、ニンジン、ネギ坊主まで、花が咲くと食べられなくなる。だからその頃の野菜不足に間にあうように二月ごろ時無大根などをまく、これも早春がすぎて暖かくなるころは花が咲いてしまう。
春の野菜は赤いエンドーの花がキレイだ。白い花のエンドーはつるがのびるので添木を立てなければならないが、赤花エンドーはつるなしなので始末がいい。スイートピーは花エンドーだから実は成らないが、食べるエンドーもこの種類だから花がキレイだ。咲いただけ実がなるので、エンドーの実が成るとラブミー農場ではエンドーばかり食べなければならない。ミソ汁のグから煮ものまで、エンドーで、食べるというより実ったものを始末しなければならないような気になってしまう。ラブミー農場ではナスが出るとナスばかりつづいて食べる。キューリが出るとキューリばかり、さやいんげん、トマト、とうもろこしと、食べる。都会の人のように、冬も、ナスやトマトなど食べる気にならない。つまり成る季節にアキるほど食べるので季節外の野菜を食べる気がおきない。やはり、都会人は、年間とおして同じ野菜を食べるのは、ふだん少しずつしか食べていないからだろう。考えようによって、一年中同じものを食べることができる都会人のほうが幸福かもしれない。また、不幸かもしれない。
いつだったか、夏、学生さんが泊り込んで農業を手伝ってくれたことがあった。まい朝、まい朝、ミソ汁とダイコンおろし、ミソ汁のグも、そのときの畑のものばかりなのだ。私のような老人ならいいが、若い人にはやりきれないらしい。私は知らなかったが、あとで、「カタイ生活をしています」と、誰かに言ったこえが届いてきた。カタイというのは、倹約ということなのかもしれないが、この場合は「ケチな暮しかた」という意味らしい。そんなふうに思われても、「百姓の生活だ」と私は思っているのでケチとも、倹約とも思っていない。
入梅の頃、南天が咲く。山梨の石和の私の故郷では南天は便所の近くに植えることになっついる。便所で倒れたら - 脳溢血などはよくトイレで倒れる - 南天の枝を折って杖にすれば中風[ちゆうぶう]にならない、と言われている。いまはそんなことを言う者もいない。南天の葉は赤飯などを重箱にいれるとき入れるが、これも縁起で、南天は虫が食わないから重箱の中味のものも腐敗していないという意味だそうである。トイレのそばの南天の葉を食べる物に入れるのは嫌だから、私のところでは、使う南天は別のところに植えておく。
南天の花を私は好きで、大げさに言えば花の中で最も美しいと思う。南天の花は黄色いと言われている。だが、はじめは白いつぼみが房状につく。白いつぼみの皮が割れて黄色い色の花が咲く。めしつぶぐらいの花だが、黄色い花になるころ外側の白いつぼみの皮が赤く色づく。なんとなく赤く、なんとなく白く、なんとなく黄色いこの花は陽に照らされると黄色は金色のように輝く。赤い色はほんのりと頬にぬられた女性のべにの色なのだ。もっと不思議なのは、黄色い色が割れると中が奥深いように見える。その奥は、なんと、女の笑う口の中の歯を思わせる。妖しく、美しく、私は「女陰」を思う。本物の女陰は暗いが感覚的な女陰の味の不思議さを私は南天の花の奥深くに味わうことができる。妖しく美しいというよりほかに表現を知らない。
南天の実ははじめ青いが、秋になると真赤な房の実になる。正月などは花の材料に使うがラブミー農場では赤い南天の実を見ることができない。秋の深まる頃、実が赤く色づく頃、たんぼの稲もなくなる頃、小鳥たちの餌となって食べられてしまうからだ。赤い実を眺めるためには金網かなにかで南天の木を囲っておかなければならないだろう。そんな面倒なことをするつもりはない。南天の花のこぼれた白い花びらは「梅雨の雪」と言いたい。入梅の頃、雪のように散り乱れるからだ。
キキョウの花は、花屋で売っているのは濃い紫色だが、私のところは薄むらさきで、これは野生の種類らしい。透きとおるような薄むらさきの色は尊い色だと思う。キキョウは盆まえから咲くが、咲き終ると茎を半分に切る。下からつぼみが出て秋まで咲きつづける。
朝顔からキキョウ、カカリアと秋まで咲きつづける。畑に直接植えてあるから花の数も多い。秋ごろは一本の朝顔は一株になってまい朝二十輪以上も咲く。いつだったか、朝、その朝顔を見て横をむいてしまったヒトがあった。「キモチ悪いほど咲いている」と言っていた。ソッポを向くほどの朝顔の数は、とても鉢ではダメだし、垣根のようにすると花はだんだん上に行ってしまう。畑の中でも、先端を株にしたほうが面白い。