1/2「平均顔 - 鹿島茂」文春文庫 セーラー服とエッフェル塔 から

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1/2「平均顔 - 鹿島茂」文春文庫 セーラー服とエッフェル塔 から

「十人並」という言葉がある。普通、とりたてて美人でもないが、さりとてひどい不美人でもない、平均的な容姿の女性について用いられる。私もそう思っていた。
ところが、いまから二十六年前、女子大の教師になったとき、この言葉に隠されたもう一つの意味を発見した。
女子大の教室に入ったとき、男の教師であれば真っ先に美人の学生のほうに目がいくのは当然である。そして、このクラスには美人が多いとか少ないという判定を下すのもだれもがやることである。私も当時は若かったからこの例外ではなかった。瞬間的にクラスの美人含有度を弾き出して楽しんでいたのである。
しかし、そのうちに、ある否定しがたい事実に気づいた。美人の数は、クラスの人数に正比例するということである。二十人のクラスよりは三十人のクラスのほうが、また三十人よりは五十人のクラスのほうが、美人の数は多い。そして、その割合は、ほぼ十人に一人なのである。
この事実に突き当たったとき、私は不思議なことを考えた。「十人並」というのは平均的な容姿ということではなく、じつは、十人に一人は美人がいるという言外の意味を含んでいるのではないだろうか?
ただ、このときには、十人に一人の美人は「例外」的存在であると見なしていたので、そこから一歩も思考が先に進まなかったのであるが、コンピューターによる顔の平均値というものを知ってから、自分の発想はかなり当たっていたのではないかと思いかえすようになった。コンピューターによる顔の平均値とは例えば次のようなものである。
「養老 ところで、東京理科大学原島文雄先生の仕事はご存じですか。コンピューターの中で、一〇〇人分の顔の画像を重ねていく。すると、これが美男美女になるんです。
仲 重ねると平均的な顔になるという話ですね。
養老 平均顔が美男美女になるというのは、直感的にはおかしい感じがするんです。美人とか美男は希少だと思われているから、プラスの重みが与えられているはずです。それが実は平均的なものだとしたら、なぜプラスの重み付けがされるのか、その論理がよくわからない」(『養老孟司・学問の格闘-「人間」をめぐる14人の俊英との論戦』日本経済新聞社)
十人に一人の確率で存在する美人は、例外的なものではなく、じつは十人の平均値としてそこにいたわけなのである。いいかえれば「十人並」なのはその美人のほうだったのだ。私の予感は正しかったのである。
しかし、そうだとすると、養老氏のいうように、平均顔に「なぜプラスの重み付けがなされるのか、その論理がよくわからない」ということになる。どうしてまたわれわれは平均値の容姿に惹かれるのだろうか?
これに対する答えでもっとも一般的なものは、進化的淘汰からする説で、平均的なものに収斂していくほうが種の保存に適しているから、われわれは平均的な容姿(つまり美男美女)に惹かれるのだと説明する。
「仲 平均顔を好ましく思うのは、生物の場合、特異なものよりもバランスのとれた個体のほうが優れているということと関係があるのではないでしょうか。
養老 そうですね。種を保つという意味では、平均的な性質に収斂していくほうが安定感があります」(同書)
このお二人はかなりソフィスティケイティッドされたものの言い方をされているが、『顔を読む-顔学への招待』(羽田節子・中尾ゆかり訳 大修館書店)の著者レズリー・A・ゼブロウィッツの表現はもっと直截的である。
「このような人[平均的な人]は有害な遺伝的突然変異をもつ可能性が低いのである。顔が集団の平均からいちじるしくかけはなれた人には遺伝的不適応がみられることがあるが、正常な範囲内の顔ならそれが平均に近いかどうかによって適応度が変化することはありそうもない。したがって、正常の範囲内の顔で魅力と平均性がむすびつけられるのは、集団の平均からいちじるしくかけはなれた顔に対する適応嫌悪の過般化を物語っている」
つまり、平均から逸脱する度合いの大きい顔には「遺伝的不適応」、「有害な遺伝的突然変異」の可能性があり、それが本能的に嫌われるというわけである。しかし、ここまではっきり言われてしまうと、けっして平均的とはいいがたい顔の持ち主である私としては、すくなからず不愉快な気持ちになる。「遺伝的不適応」ねえ、そりゃまあ、そうかもしれないけれど......。