「朝はあんパン - 坪内稔典」ベスト・エッセイ2011 から

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「朝はあんパン - 坪内稔典」ベスト・エッセイ2011 から

朝はあんパンと決めている。
三十年くらい、朝食はあんパン一個か二個である。もちろん、いろいろ食べるのだが、最近はあんパン、チーズ、トマトジュース、ヨーグルト、くだものというメニューが多い。
あんパンはごく普通のもの。近年、あんがどっさり入ったもの、あんを栗やさつまいもなどで作ったものがあるが、私は小豆のあんとパン生地がほどほどに調和したものが好き。つまり、中に少し空洞があるようなあんパンだ。指でその空洞を圧し、パン生地をあんになじませてから食べる。
元々、父譲りの甘党である。父はごはんにぜんざいをかけて食べたし、九十歳で他界する寸前までコーヒーに角砂糖を三個か四個入れていた。まんじゅうなども一度に数個をたいらげた。
私は、この父の子にしてこの子あり、という感じであんパン好きになったのだが、他にもいくつか好きになった訳、がある。

その一つは、私が研究の対象にしてきた正岡子規があんパン好きだった、ということ。つまり、子規の真似をしてあんパンを食べ始めたら、すっかりあんパンになじんでしまったのだ。
子規は明治十六年、十六歳で四国から上京した。朝、新橋駅に着いた子規は、先に上京していた友人の下宿を訪ねるが、探し当てたときもう正午に近かった。旧友と会って、東京の菓子パンを子規は初めて食べた(「筆まかせ」)。空腹だったこともあって東京の菓子パンはうまかったに違いない。後年、寝たきりの重病人になった子規は、病床の楽しみとしてほぼ連日、菓子パン数個を食べた。その中にはあんパンもあった。
あんパンを食べるようになったら、あんパン好きな人があちこちにいることが分かってきた。子規と同年の生まれ、しかも大学予備門という学校で同級だった南方熊楠もその一人。熊楠は大学予備門を中退してアメリカに渡り、やがてロンドンの大英博物館で研究する。博物学、粘菌学、民俗学などの研究に没頭した熊楠は、帰朝後は和歌山県田辺市を拠点にしたが、徹夜して研究するときは、夜食用にあんパン六個を用意するのが習いだったという(南方文枝「父南方熊楠を語る」)。あんパンが熊楠の驚異的な博識を可能にしたのだろうか。
女性にもあんパンに魅了された人がいる。たとえば小説家の野上彌生子。彼女は明治三十三年に大分県から上京して東京の女学校に入った。入学手続きに学校に行った日、駅のベンチで昼飯代わりのあんパンを食べた。「まるく狐いろに膨らんで、窪みにほの紅[あか]く塩味の桜の花をつけたあんパンが、世の中にこんな食べ物があるかと思うほどおいしかった」。以上は自伝的小説「森」の一節である。「海神丸」「秀吉と利休」などの小説を書いた彌生子は、初めてあんパンを感動して食べた。

熊楠や彌生子を知って私のあんパン好きはますます昂[こう]じた。それとともに、あんパンに助けられることも多くなった。
私は話しべたである。特に初対面の人とは話がしにくい。この人にどのように対応したらよいのか、と躊躇してしまう。きっと気が弱いのだろう。
ところが、あんパン好きが知られるようになってからは、あんパンが話の糸口になり、初めて会った人とも話が弾むようになった。講演などに行った際にも、係の人がその土地のあんパンを用意してくれることがしばしば。そうすると、講演の枕があんパンになって、ずいぶん調子よく話すことができる。
今年の夏、三回にわたる講演があって長野県へ通ったが、初回には五個がセットのあんパンを係の人が用意していた。講演でその話をしたら、二回目には十二個もらった。三回目はなんと十七個。小海線の高原の駅のあんパン、善光寺のあんパンなど、皆さんが土地の自慢のあんパンをくださったのだ。全部は食べきれないので家族や知人に分けたが、数日間、あんパン尽くしの幸せに浸った。
あんパンは安い。普通は一個が百円台だから、もらってもさほど負担にならない。くれる側も同様だろう。勤務先の大学の学生なども、「これ、どうぞ。アルバイトをしている店のあんパンです」とくれることがあるが、それが別に成績に影響する賄賂になるわけではない。あんパンのこの安さというか、気楽にやりとりできることが会話を弾ませる。
あんは粒あんですか、こしあんですか。どこのあんパンがうまいですか。自分であんパンを買うのですか。毎朝食べて健康に心配はないのですか。家族のみなさんもあんパンですか。以上のようないろんな話題が弾むのである。

あんパンは粒あん雪は牡丹雪

ごく最近に作った私の句である。あんパンは粒あんが好き、雪はふわふわの牡丹雪が好きというだけの句だが、毎朝のあんパンは私の日々を活気づけてくれる。彌生子の口吻[こうふん]を借りると、世の中にあんパンがあってよかった、という感じだ。