「筆まかせ(書抜其の一) - 正岡子規 岩波文庫 筆まかせ から

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「筆まかせ(書抜其の一) - 正岡子規 岩波文庫 筆まかせ から

○東京へ初旅

去年六月十四日余ははじめて東京新橋停車場につきぬ 人力にて日本橋浜町久松邸まで行くに銀座の裏を通りしかば、東京はこんなにきたなき処かと思へり やしきにつきて後川向への梅室といふ旅館に至り柳原はゐるやと問へば、本郷弓町一丁目一番鈴木方へおこしになりしといふ 余は本郷がどこやら知らねど、いい加減にいて見んと真直に行かんとすれば、宿の女笑ひながらそちらにあらずといふにより、その教えくれし方へ一文字に進みたり 時にまだ朝の九時前なりき それより川にそふて行けば小伝馬町通りに出づ、ここに鉄道馬車の鉄軌[てつき]しきありけるに余は何とも分らず これをまたいでもよき者やらどうやら分らねば躊躇しゐる内傍を見ればある人の横ぎりゐければこはごはとこれを横ぎりたり その後ハどこを通りしか覚えねど大方和泉橋を渡り(眼鏡かも知れず)湯嶋近辺をぶらつき 巡査に道を問ふすべをしらねば店にて道を問ひながらやうやう弓町まで来り 一番地といふて尋ねしに提灯屋ありければ ここに鈴木といふて尋ねしに この裏にまわれ 小き家なりといふ 裏へまわるにどの家やら分らず 鈴木といふ名札を出したる処なし 遂にそこにある一軒の家に入りて問ふて見んと「お頼み」と一声二声呼べば「誰ぞい」といひつつ出で来たりしは思ひもよらぬ三並[みなみ]氏なれば 互に顔を見合してこれはこれはといふばかりなり 余ハはじめこの家より出てくる人は知らぬカオ[難漢字]なり 若[も]シ知りたるカオならば柳原ならんと思ひしに 事不意に出でたり 三並氏も余の出京の事は露知らねば驚きて「まず上れ」といふ 上りて後柳原はと問へば 今外出せりといふ その時は最早十二時近かりしならん 色々の話の中に柳原も帰り来り ここではじめて東京の菓子パンを食ひたり
 
○俳句と俳諧

発句と俳諧とは如何の区別ありやと問はれし事度々ありしが 余は常に左の如く答へたり 「俳諧といふことは『古今集』の終りにもありてその意味は雅語のみを用ゐず 俗語をも交へ用ゐるの意なるべけれど 今より見ればさほど俗とも思はれず 且ツ三十一文字なれば和歌とさしたるの差異もなし 併シ後世に至りては文字の数にかかはらず、俗語を用ゆるを俳諧といひ習はし その中にて十七字なる者を発句といふ 故に俳諧の中の一部分が発句なり」と しかるにこの頃たしかなる筋より聞けばさる訳にあらず 俳諧とは俳諧連歌のことにて 発句とはその初めにおく十七文字の句の事なり 故に発句なるものは俳諧より出でたりと 余是[ここ]において悟る所あり 思へらく なるほど発句は俳諧連歌なるものより出でたるに相違なし されど俳諧といふて俳諧連歌を意味するは博物学といふて動物学を意味する如く 後世その意を変ぜしものにて もともと俳諧といふは雅語のみによらぬ処より出でたる文字ならん 故に『俳諧七部集』といふてもやはり発句をも含みゐれば 発句は俳諧の一部と見て誤りなからんと思はるるなり
 
○古池の吟

「古池や蛙飛びこむ水の音」とは誰も知りたる蕉翁の句なるが その意味を知る者は少し 余ハ六、七年前にある人の話を聞きしに こはふかみの三字を折句にせしものなり しかしその深意に至ては我々の窺ふべきにあらず あたかも歌人の「ほのぼのと」におけるが如し云々と 余この説を信じてなかなか分らぬものとして考へたることなかりき しかるにこの春スペンサーの文体論[ヒイロソフイー、オブ、スタイル]を読みし時minor imageを以て全体を現はす 即チ一部をあげて全体を現はし あるはさみしくといはずして自らさみしきやうに見せるのが尤詩文の妙処なりといふに至て覚えず机をうつて「古池や」の句の味を知りたるを喜べり、悟りて後に考へて見れば、格別むづかしき意味でもなく ただ地の閑静なる処を閑の字も静もなくして現はしたるまでなり 心敬僧都[しんけいそうず]の句に「散る花の音聞く程の深山かな」といふ句あり 同じ意味なれどもどちらが優れりや劣れりやは知らず、さりなかなら心敬の句には「程の」といふ字ありて芭蕉には此の如き字なし、これあるいは芭蕉の方まさりたる処ならんか、しかし趣向は心敬のもなかなか凡ならず 決して芭蕉のに劣るべくも思はれず、いで生意気にも理論的に改め見んと色々に工夫したる末「散る花の音を聞きたる深山哉」とせしになほなほおかしくて句にならず、はてなと思ひながら芭蕉の句を見るに聞くといふ字なし、さてはと悟りて見れば余の句は聞くといふ語を前のよりも長くせし故不都合なるなり 今度こそと思ひ直したれど 終りに「深山哉」と結びにはどうしても聞くといふ字を要する故 是非とも芭蕉流にかへざるべからずとて「奥山やはらはらと散る花の音」として見たれども、どうも古池ほどの風致なし、さりながら、どこがわるいといふ陸くつも見出だし得ず 謹んで大方の教え俟[ま]つ

(自注)
散ル花ニハ音ナク蛙ニハ音アリ 是レ両句ノ差違アル処ナリ 即チ古池ノ句ノ方自然ナリ