「臨3311に乗れ(城山三郎作)の解説 - 原口隆行」鉄道ジャーナル社 文学の中の鉄道 から

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昭和二十年代の半ば - 。神戸の会社を辞めて、日本ツーリストというご大層な社名の、その実は東京・秋葉原のガード下にある小さな会社で面接を受けた京大出の青年高島が、採用と決まって荷物を取りに神戸に戻ると話したところ、「ちょうどいい。臨3311に乗れ」と社長の馬場勇が声をかけてきた。

「はあ?」
「3311だ」
馬場は同じ言葉をくり返す。
きょとんとしている高島に、野武士の一人が救いを出した。
「設定臨の臨時列車の番号だ。夜七時三十分に出る京都行きだ」
「......それに、乗せてもらえるんですか」
野武士たちは、笑った。
「乗せてもらえるにはちがいないが、お客さんとしてノルディックんじゃない。お客さんは、修学旅行の団体だ。その団体の添乗員としてついて、勤務して行くんだ」

物語は、高島がこの列車に添乗してさんざんな目に遭うところから始まる。
なにやら波瀾万丈、さては高島を主人公にした小説かと思いきや、さにあらず、実は『臨3311に乗れ』は、書かれた当時、旅行会社の近畿日本ツーリストの副社長だった馬場勇を主人公にした小説仕立ての風変わりな同社の社史である。城山三郎は、病床にあった馬場から懇望されて執筆を引き受けた。そして、馬場が昭和四十九年(一九七四)一月に没した後の昭和五十年十二月に刊行された。
馬場は色の浅黒い小男で、片目が見えなかったことから色眼鏡をかけていた。おまけに、耳も片方は聴こえなかった。東大を出て戦前は朝鮮銀行、戦後は復興金融公庫に勤めた銀行員だったが、嫌気がさして退職、自他ともに野武士と認め合う仲間とともに昭和二十三年(一九四八)九月、日本ツーリストを創設した。元手がかからず、前金が入るからという旅行会社を選んだ理由だった。社名の頭に「日本」を冠したのは、少しでも会社を大きく見せようとの魂胆からである。
物語の前半は、この野武士の集団が徒手空拳、悪戦苦闘しながら日本各地を走り回り、日本ツーリストを育て上げていく話に終始する。
知名度も信用も全くないために、手始めに国鉄に三拝九拝してようやく上野駅と新橋駅の構内に営業所を開設したはいいが、上野は汚水が流れ、小荷物運搬車が行き交う地下道の入口にあり、新橋はベニヤ板を打ち付けただけの狭い空間といった有様だった。
馬場たちは、そんな悪条件下で業態を大きくしていったが、内実は火の車、社員や自分たちの給料もろくに出せないという状況が続く。新しい営業所を開設しても、馬場は所長以下所員に給料は自分たちで調達しろと一喝。一事が万事、野武士たちの仕事ぶりは荒っぽかった。ただ、情熱と気概だけは火のように熱かった。
臨3311が誕生したのもそんな時代のことである。この修学旅行専用の臨時列車は馬場が発案、国鉄に再三掛け合ってようやく実現させたものだったか、これは修学旅行史上初めてのこと。それまでは一般の客と座席を奪い合いながら乗り合わせおり、当然ながら先生や生徒、一般客双方に評判が悪かった。既存の概念や常識にとらわれない、素人の発想だからできたことである。
やがて、日本ツーリストは少しずつ世に知られるようになり、東京や京都、さらには別府の旅館などからも一目置かれるようになっていく。だが、あまりにも杜撰[ずさん]な経営を続けたためについに資金繰りに窮するようになった。
そこで馬場は、伝手[つて]を頼って近畿日本鉄道(近鉄)の社長佐伯勇に融資を仰ぐことにした。佐伯と馬場はひとまわりも歳が違ったが、名前がともに「勇」ということで意気投合、馬場の気迫に押されて佐伯はついには近鉄の小会社だった近畿交通社と合併させようと提案した。ほぼ互角の規模どうしだったが、後には近鉄社内で極道息子と呼ばれてお荷物扱いされていた国際運輸部も合流することになり、資本金が三千万に膨らんだ。内訳は二千万が近鉄、一千万が日本ツーリストである。だが、一千万のうちの七百万は近鉄からの融資だったから、実質は二千七百万対三百万、九対一の吸収合併だった。
合併に際して馬場は平身低頭、「できるものなら、ぜひ、日本ツーリストの名でやらせてほしい」と、涙を浮かべて佐伯に懇願した。これに対する佐伯の答は、「ほぼ、そのとおりや。上に近鉄の二字をつけるだけや」というものだった。佐伯は馬場に対してどこまでも寛容だった。こうして、昭和三十年(一九五五)九月、近畿日本ツーリストは誕生した。馬場は副社長に就任した。
新会社になってからも、馬場と苦楽を共にした野武士たちは、近鉄側から加わった侍たちとともに、相変わらず東奔西走、馬場もまた時代の空気や変化を読み取りながら事業を拡張し、業績を拡大させてゆく。修学旅行を教育の一環として位置づけ、教員を対象とした研修旅行を実施して成功させたかと思うと、京都・西本願寺親鸞聖人没後七百年の法要では二十四万人以上の信徒をほとんど独占的に輸送して業界をあっといわせたり、はては業界に先駆けてコンピュータを導入したりと、とにかく枚挙に遑[いとま]もない。
副社長に徹した馬場は、無理が重なってついに病に倒れたが、事業への熱意は終始衰えることはなく、病床からも社員に檄を飛ばした。城山三郎が執筆を受諾したのは、その心意気に深く共鳴したからのことである。
そんな馬場の口癖は「一日に四回飯を食え。一回は活字の飯を」だったという。
肩が凝ることもなく、楽しく読みながら近畿日本ツーリストの歩みがたどれる社史である。