「水洗の使えなくなる時 - 古井由吉」文春文庫 巻頭随筆4 から

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「水洗の使えなくなる時 - 古井由吉」文春文庫 巻頭随筆4 から

これで十五年目、私は世田谷の馬事公苑近くの、マンションというものに住んでいる。現在、建物全体の、給湯管の交換工事がおこなわれている。おかげで一週間ばかり湯が出ないので、バスに乗って、銭湯に行くことを考えている。
十三年目に、外壁の改修工事がおこなわれた。薄黒く汚れたのを真新しい白に塗りなおすという。回ってきた見積書を見ると、各戸の負担分がたいそうな金額になる。どうせ煉瓦造りや石造りの品位はないのだから、汚くなったら汚いでいいではないか、と私はそう思ったが、しかしそうは行かないのだ。美観の問題たけではない。コンクリート壁には、年月が経てばどうしても罅[ひび]が入る。そのわずかな間隙から雨水が染み入る。それが妙な経路をたどって妙なところから漏る。放っておけば建物全体があちこちから、長い間には浸蝕される。
年寄りの化粧みたいな新装がなって、払いも済ませてやれやれと思っていると、一年置いてこの工事である。負担費用も前回に劣らない。なにしろ、管がすでにつまりかけているというから仕方がない。しかも考えてみれば、これが済んでも、水道管やら排水管やら、手術の必要が次々と待っている。じつに建物の中高年障害は、人のそれと変りがない。
そんなことで先行きいささか暗然たる気持でいたところへ、新聞がまた厭[いや]なことを伝えてくれた。鉄筋コンクリート建築物の寿命は思いのほか短いようだ、と。二十年-で尽きるとは言っていないが、二十年ばかり前に新技術と新感覚を凝らして颯爽[さつそう]と登場した公共建築物の多くが、いまや惨憺たるありさまであるらしいのだ。かくなった理由もさまざま述べてあり、さもあらん、と私もうなずいた。
この国の建造物の大部分はここ二十年の間に出来たと言えるだろう。そのまた大半が、今から何年か前までの十数年間、ひょっとしたら十年間ぐらいの、経済成長期に集中しているかと思われる。ところで、建造する側はたぶんそれなりの力を傾けたことだろう。技術も日進月歩であったにちがいない。それに、建築や経済について私には格別の知識はないけれど、その間の人心一般を考えると、供給側も需要側も、家を造る方も売る方も買う方も、買うよりほかにない方も、百年とは言わず五十年の計を眼中に置くような、そのような心性も余裕も持ち合わせ難かった、とは言えるのではないか。
私の住まうところはいわゆる中級マンションの走りのひとつで、およそ実質一点張り、堅牢一方に出来ている。洒落た玄関もロビーもない開放式の、壁も厚ければ梁も武骨な、四角四面の建物である。見る人は刑務所を連想するらしい。これはあんがい一生頼り甲斐のある栖[すみか]かもしれないぞ、と私はその牢獄云々の印象を初めて人から聞いたときに、ひそかに喜んだものだ。それが、全体の堅牢さは今でも変りないのだが、やはり人体同様に内蔵から、コレステロールごときが溜まって、老いて行く、手術すれば更新できることなのだが、なにせ健康保険がきかない。
粉[セメント]と砂利と水とを捏[こ]ねてたちまち出来あがった石が、なにほどの永続性を持ち得るか、とそんなことは、物性の理に多少とも通じている人間ならば、わかりそうなところだ。なに、傷んでら、すっかり取り毀[こわ]して、新しく造りかえるさ、いうような楽天がわれわれの内にたしかにあった。今でも物事一般について、つきつめればそういうことになる考えを、わりと呑気に抱いている人もある。しかし造ったものが使いものにならぬほど傷む頃にはたいてい、造ったほうの人間の世界も、力が衰えているものだ。その点では、物をいったんがっしりと造りあげてしまう外国人よりも、ほどほどの堅固さに造っておいて、破れればあっち直しこっち繕う、その場しのぎみたいな日本人の姑息さのほうが、まめに修理するだけに、この際有利にはたらく、という説も聞いたことはあるけれど、どんなものだろうか。とにかく十年とそこいらの間に一斉に建ったものが、二十年とそこいらでまた一斉に、ビルも道路も鉄道も、ガタがくるのだ。
黙示録とか言って、天から火が降ったり血が落ちたり、地が裂けたり叫んだり、そんな結末の予言もあるが一方ではまた、ある時期を境として順々に、道路の要所が通行止めになったり、鉄道の下がぼろぼろになったり、家々でガス管が詰まったり水道が停まったり、水洗トイレが使えなくなったり、そして天気晴朗が打ち続き、というような、あっけらかんとした黙示録もあり得るわけだ。