「夢の話 - 小沼丹」エッセイ’ 91 から

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「夢の話 - 小沼丹」エッセイ’ 91 から

先夜、見馴れぬ夢を見た。夢はときどき見るが、この夜の夢はいつもの夢とは些か違ってゐた。場所もロンドンで、以前ロンドンに行ったとき何度か覗いたことのある酒場が出て来る。その酒場へ行くといつもみんなの真似をして、土間に立ってビタアを飲んだものだが、夢のなかでは卓子に向って坐つていてウヰスキイの水割なんか飲んでゐるから尋常ではない。近頃身体の調子が芳しくないから酒を控えているが、夢のなかでよく酒を飲むのはその埋合せの心算なのかしらん?
卓子の向うに一人、何だか面白い顔をした禿頭の男が居睡をしてゐたが、不意に眼を開くと此方を見て、グラスを挙げて乾杯、と云ったから、此方もその真似をして、乾杯、と云った。するとその男は、
- 小生はオリヴァ・ゴオルドスミスと申す......。
と自己紹介をした。普段なら?で吃驚仰天する所だが、夢のなかでは滅多なことでは驚かない仕掛になってゐる。御眼に掛れてたいへん嬉しい、と握手をして相手の顔をよく見ると、成程、書棚に並んでゐるゴオルドスミスの本の口絵の肖像にそっくりだから懐しかつた。試みに、
- この店にはよく来られるのか?
と訊いてみたら、ゴオルドスミス先生は首を振つて、この店の広告文なんか見ると、我われがちよいちよい訪れたやうに書いてあるが、あれは飛んでもない出鱈目だ、正直な所を云ふと、実は今日始めて来たのだ、と眉を?めて見せた。これは意外なことを聞くものである。我われと云ふのは、多分、ゴオルドスミスとジョンソン大人のことだらう。
まだ話がありさうだから、謹んで拝聴しようと思つてゐたら、ゴオルドスミス先生は何やら御機嫌の態で、どこかで聞いたことのあるやうな曲を鼻唄で歌つてゐる。その曲が気になるからよく聴いてみると、多少音程は狂つてゐるが、紛れも無い、昔懐しい「紅屋の娘」だったから嬉しかつた。もう一度握手して、一体いつどこでそんな唄を憶えたのかと訊かうとしたら、先生、不意に立上って、
- チェリオ......。
と片手を挙げて行つてしまつた。何とも呆気無い結末だが、夢なのだから仕方が無い。店の男に、あの人は今日始めてこの店に来たと云つてゐたが......、と訊いてみたら、愛想の無い店の男は仏頂面をしてこんなことを云つた。
- どう云ふ風の吹廻しか知らないが、ミスタ・ゴオルドスミスは昨日
も来たし一昨日も来ました。珍しく金が入ったのかもしれない。
眼が醒めてから、何故そんな夢を見たのか、考へたがさつぱり判らない。或は、二、三日前にロンドンの写真集を面白がつて見たが、真逆、そのせゐでもあるまい。それよりも夢のなかで聞いた、チェリオ、は以前どこかで聞いたことがあると考えてゐたら、昔、ハドリアン・ウオオルの近くの居酒屋に這入つたときのことを想ひ出した。
昔、友人の車に乗せて貰って英国のあちこちへ行ったが、そのときスコットランドに近い所にあるハドリアン・ウオオルの遺蹟も見学した。これは何でもロオマ皇帝ハドリアヌスの命令で、北方族の侵攻に備えて築かれた防壁ださうだが、当時は英国の東海岸から西海岸迄続いてゐたと云ふから偉いものである。英吉利版万里の長城と云ふ所だが、生憎、現在はその一部しか残ってゐない。
確か五月の小雨の降る肌寒い日だったと思ふ、行って見たら、垂込めた雨雲の下に見渡す限り低い丘陵が連つてゐて、その丘陵から丘陵へと帯のやうに石の防壁が続いてゐる。荒涼たる風景だが妙に人の心を惹きつける所があつて、暫く立つて見てゐたのを想ひ出す。このハドリアン・ウオオルの近くに、小さな居酒屋があつた。丘陵ばかりで他に何も無い吹曝の淋しい所に、一軒ぽつんとあるのだから、これは誰でも覗いて見たくなる。覗いて見たら、意外なことにカウンタアのある方は満員で坐れない。店の親爺に云はれて、サルウンの方へ這入つてビタアを飲んだ。
サルウンの煖炉には石炭が赤く燃えてゐて、英国のパブらしく得体の知れないいろんな面白いもので飾り立ててあるが、おまけに、男の子と犬がゐたから面白かつた。親爺は眼のきよろりとした怖い顔の男だが、その息子らしい十歳ばかりの男の子がゐて、これは可愛らしかつた。この少年が異国の人間に興味を持つたのだろう、通路の傍に坐り込んで、頬杖なんか突いて珍しさうに此方を見てゐた。犬の方はドオベルマンと云ふのかしらん?大きな黒い奴で、男の子の隣に並んで坐つて、此方を見たり脇見をしたりしてゐた。こんな少年と犬の絵を、前に見たことがあるやうな気がする。男の子の名前を訊くと、
- ジョオジ......。
と云つて相不変此方を見てゐる。その裡に段段この店が気に入つて、窓から見える荒涼たる雨の丘陵を肴に酒を飲むのも亦一興ならずや、と云つたら同行の友人が吃驚して、
- それでは予定が狂ふ。早速出発です。
と云ふから仕方が無い。出発することにして、別棟になつてゐる便所に行つて、出て来て車の方へ行かうとしたら、扉口に男の子が立つてゐて、人懐つこさうな笑顔で、
- チェリオ......。
と云つて片手を挙げた。一体、あの少年はその后どうしてゐるかしらん?