「遺産と誤算 - 吉村萬壱」ベスト・エッセイ2011 から

f:id:nprtheeconomistworld:20201009083405j:plain


「遺産と誤算 - 吉村萬壱」ベスト・エッセイ2011 から
 
大学四回生の夏に教員採用試験を受けたが、一般教養のない私は一次試験で落ちた。その時丁度一人暮らしの叔母がバイク事故に遭い、脳挫傷になった。母に「お前は不合格になって暇なんだから看病してこい」と言われて大阪府立病院に行くと、ICUの中で叔母は死にかけていた。そのまま死ぬと思ったが意外な事に持ち直した。一般病棟に移され、私はベッドの上で暴れる叔母を抑え付けたり、全身に拡がった七色の痣を眺めたり、尿の溜まった?瓶を運んだりした。やがて意識が回復した。強靭な生命力だと思った。彼女は熱心な新興宗教の信者だったから、その功徳だったかも知れない。深夜の詰め所で大股を開いて居眠りしたり、隣にある寮の廊下を下着姿で闊歩したりする看護婦達が滅法面白く、私はその夏の一カ月をずっと叔母の看病に費やした。どうせ暇だったのだ。
あれから三十年近い歳月が流れた。その間殆ど行き来のなかったその叔母が今年の三月に、老人病院で死んだ。八十一歳だった。去年見舞った時に見たら体は往時の三分の二ほどに萎縮し、足には鷲のような爪が伸びていた。飯をスプーンで口に運んでやると彼女はよく食べ、名を名乗る私に「ぁぁ」と応じた。
叔母が死んで暫くすると、金庫の中に遺言書を見付けたと母が伝えてきた。全ての財産を私に譲ると書いてあるという。叔母は独り身だったが甥や姪は他にもおり、なぜ私だけに譲る事にしたのか分からなかった。看病への感謝なのか。しかし当時の私の興味は叔母の容態にはなく、専ら当直の看護婦の股間にあったのだが。
弁護士に処理を依頼した。結果、僅かばかりの現金とマンションを得た。マンションに出向いてみると、中はゴミ屋敷同然だった。不動産としての価値も二束三文で、しかし売るにしても中を整理する必要があった。
息を止めながら整理している内に、この叔母の異常なまでの収集癖と、新興宗教の教祖に対する恋愛感情にも似た執心振りが分かってきた。古いキャラメルが八袋、変色した揉み海苔が七袋、夥しい繃帯、絆創膏、注射器、衣類、筆記具、意味不明の光る球体、宗教団体への寄付に対して与えられる金メダル、教祖の写真の切り抜き、数々の装飾品と祭壇のように設えた造花の花畑。メモ書きや日記帳も見付けた。これは小説の材料になる、と思った。「写真・不用」と書かれた封筒に入った古い写真の束にも惹き付けられた。昔の写真はなぜこうも小さいのだろうか。三十歳頃の叔母のシュミーズ姿を四十九歳の甥が盗み見て、その体の品定めをしているのである。或る時期から急に私の知っているほっぺたの垂れた叔母の顔になるのだが、それ以前は普通の女で、それを知り得た事で私には色々と納得のいくことがあった。しかしそれはここに書いてはまずい。
「断捨離」とかいって自分の所有物を最小限にする整理術がはやっていると聞くが、私は反対だ。漫画家の双子の実弟芸術大学の大学院で油絵を学んだが、最近過去の油絵やアクリル画、スケッチなどの全てを処分してしまったそうだ。そして「捨ててこそ」と禅坊主のような事を言っている。私は彼の死後、隠された諸作品をじっくり品定めするのを心のどこかで楽しみにしていたので臍を噛んだ。
死んだら人間消えてなくなるのだから、生前の遺物を極力そのまま残して死ぬのに何を躊躇う必要があろうか。身寄りがなければ、国家が始末すればよい。死んだ後ぐらい、国家は野垂れ死にした国民の死体や遺物の面倒をみるべきであろう。こっちは税金を払ってきたのだ。その時第三者が何かを発見するかもしれないではないか。他人が見て初めて分かる価値というものがあるのである。
次第に、叔母が私を相続人に選んだ理由が分かってきた。彼女は私が些末な物、価値のない物にまで執着する人間である事をそれとなく感じ取っていたものに違いない。実に彼女の部屋は、私の住む家と殆ど変わらない価値観に支配されていたのである。ガラクタとゴミ同然の物によって創造された三文宇宙。この創造行為こそ、この世で誰もが実現し得るデーミウルゴス(宇宙創造者)としての自己実現の究極の形ではないのか。主人の死後一瞬で壊される代物であっても、見る者が見ればそこに美が現出する。ヘンリー・ダーガーの例もあり、このようなゴミ宇宙の記録は都築響一辺りの仕事ではないかと思う。
そしてついに私は、ゴミの中に真っ赤なファイルを発見した。最近買ったユングの『赤い書』を連想させるその鮮やかな赤に私は胸躍らせて開いてみた。するとそこにはたった一枚の紙切れが入っていた。
カラオケの歌詞カード「銭形平次」。
これぞ叔母の宇宙の中心に存する核だと思った。こんな見方は確かに私だけのものかも知れない。甥なら分かってくれると思ったとすれば、叔母の直感は正しかったと言える。ところで彼女は果たして甥が作家になった事まで知っていたのだろうか。何しろ私は彼女の秘密の日記も握っているのだ。幾ら汚い字で書かれていても、下着姿が脳裏にちらつく限り一字も残さず判読して勝手な叔母像を作り上げ、奇っ怪なゴミ小説に仕立て上げる誘惑にはとても勝てそうにない。甥が作家だった事、これこそ彼女?生の大誤算であったろう。