「新生『SMキング』(抜書) - 団鬼六」講談社 快楽王団鬼六 から

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「新生『SMキング』(抜書) - 団鬼六講談社 快楽王団鬼六 から

『SMキング』が新生『SMキング』として発足したのは昭和四十七年(一九七二年)の暮れからであった。
旧勢力の山岡、吉田、鈴木の三人を根こそぎ解雇した時は、これでいいのだろうか、と不安がよぎったが、こうなれば、ままよ、三度笠である。半年近く、赤字雑誌を平気で出版していたという彼らの怠慢は許しがたいと自分にいい聞かせた。
かといって、入社試験に社長の希望に応じてセックスしてみせるというような川田や、編集会議の時に社長に愛人はいりませんか、と、ポン引き行為をする大谷のようなおかしな学生を使って編集部が作れるかどうかははなはだ疑問である。
編集長・山本銀子、副編集長・木村悦子、編集部員・川田、大谷、櫛田、小間使いにたこ八郎、これが新しい『SMキング』編集部の陣営である。男性編集部員はどうも信用出来そうでないが、編集長の山本銀子と副編集長の木村悦子は容姿もまずまずだし、才女の匂いを感じさせた。ひょっとすると、という期待感も生じてくる。それにエログロ雑誌を女性二人が編集するということが珍しく、この業界の話題になるかも知れぬと思った。
山本銀子も木村悦子も『SMセレクト』の宮川編集長達の短期間の指導を受けただけで、付け焼き刃的に編集技術を身につけたのである。山本銀子は風俗雑誌の編集長としての資格はないという事は自分だって心得ている筈だが、こうなったら、やるしかない、という意気込みは凄まじかった。
目黒の事務所に連日、泊まり込んで編集事務にたずさわり、それに川田や大谷達も呼応しと泊まり込んで仕事を始めた。
丁度、その頃、パンダブームが起こっていた。中国政府から贈られたジャイアントパンダ、オスの「カンカン」とメスの「ランラン」の一般公開が上野動物園で行われる事になり、パンダ目当ての入園者数は初日、五万人以上だった。
私達の家族は目黒の事務所の二階を住家にしていたが、朝、起きて階下の事務所をのぞくと、パンダの大きな縫いぐるみを枕にして銀子と悦子が小部屋で熟睡していた。男連中は、と見廻すと事務所のソファの上下に流木のように転がって鼾[いびき]をかいていた。
彼等の着ているジャンパーの胸元にはパンダのワッペンが張りつけられていたが、パンダ好きの女編集長から押しつけられたものらしい。
雑誌の発売日に間に合わせるため、昨夜は徹夜して全員がんばり、割りつけなど、編集業務に熱中したのだと思うと、私は感動した。
まだ二十五歳の若い編集長を守り立てて川田ら、二十代の若者達が徹夜して奮闘していると思うと、雑誌が売れる、売れないに関係なく私は満足だった。駄目なら駄目で派手に解散騒ぎをやればいいと私は気軽に考えた。

私は山本銀子と木村悦子の二人の編集方針を一切任せて、一人のSM作家として新生『SMキング』に加わったようなものである。銀子は私に、SMの考証物を書かせなかった。
他誌に掲載されているようなどぎつい倒錯官能小説を連載する事、それとは別に毎月、短編を一つ、という注文を私につけた。
そして、私のSM仲間に直接、彼女に逢って、執筆依頼をして廻ったのである。
その一人が千草忠夫 ー 彼は金沢の女子高の教師である。私が『奇譚クラブ』に『花と蛇』を連載していた頃、千草忠夫は同じく『奇譚クラブ』にエッセイを連載していて、『花と蛇』を分析、考証したものが多かった。つまり、千草忠夫は『花と蛇』の熱烈なファンであって、その頃、三浦で中学教師をやっていた私の家にわざわざ金沢から逢いに出て来たりしていた。
もともとエッセイではなく、小説を書きたがっていた千草忠夫に銀子はイギリス、ビクトリア時代の倒錯官能小説、『甘美なるアリスの降伏』の翻訳を依頼した。千草忠夫は名門女子高の英語教師であり、教務主任の肩書きまである男だから、私のような田舎中学の薄っぺらな英語教師などとは格が違う。それともう一つ、千草に学園の女性教師とか女子高生が主役になるSM小説を依頼した。職業的にモデルはいくらでもいるらしく千草は悦んで引き受けた。それには『奇譚クラブ』で使用していたペンネーム九十九十郎を使用させる事にした。
一人の作家にペンネームを使い分けして二本の作品を掲載させるというのは銀子の思いつきである。
今一人は、美濃村晃である。彼は『SMセレクト』の嘱託編集者で、銀子や悦子に編集技術の手ほどきを編集長の宮川と一緒にしてくれた人物だが、それ以前はSM雑誌『裏窓』の編集長、そのもう一つ前はSM雑誌の老舗であった『奇譚クラブ』の編集長時代があった。いうなればSM雑誌編集者のベテランだが、作家ではない。もともと喜多玲子という女性名のペンネームを使う挿絵画家であった。挿絵といっても得意とするのは緊縛女性画であって、だからSM小説の挿画[そうが]を描かせたら彼の右に出る挿絵画家はいなかった。と同時に彼はいわゆる縛り屋であって、『SMセレクト』に登場するヌードモデルはほとんど彼に緊縛され、カメラマンの被写体にされていたのである。SM雑誌には欠くべからざる人間であった美濃村晃を銀子は口説き落として、「縄を持った食客」というエッセイを連載させることにしたのである。『奇譚クラブ』、『裏窓』、『SMセレクト』と縛り屋をしながら、転々と移り変わっていくはかないやら面白いやらの縛り屋人生を描いたものだが勿論、挿絵はもう一人の彼、喜多玲子が描く事になる。
その他、SM小説の執筆陣としては、芳野眉美[よしのまゆみ]、安芸蒼太郎[あきそうたろう]、光谷東穂[みつたにとうほ]、豊中夢夫[とよなかゆめお]といった当時の中堅作家を起用し、小説よりはむしろ、劇画の方に重点を置いて、椋陽児[むくようじ]、前田寿安[まえだじゆあん]、沖渉二[おきしようじ]など、当時の流行イラストレーターを起用した。
山本銀子と木村悦子の二人が執筆者に好かれるという事が新生『SMキング』成功の一因だったと思う。
三号ぐらい出した頃、発売元の大洋図書から電話があり、一号、二号が完売したと知らせて来た。そして、発行部数を元通りの五万にしたい、と申し出てきたのである。
これまで部数、一万を切りそうな状態であったのに元通り、五万部にすると発売元からいわれた時は、私は一瞬、自分の耳を疑ったぐらいだった。たしかに銀子や川田達のいうように考証は一切排除し、エログロナンセンス路線に切り換えはしたが、それにしても、いきなり部数が五万に切り換えられるとは想像もしていなかった。
(後略)