「他者とのキャッチボールを(後半抜書) - 色川武大」ちくま文庫 色川武大・阿佐田哲也ベスト・エッセイ から

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「他者とのキャッチボールを(後半抜書) - 色川武大ちくま文庫 色川武大阿佐田哲也ベスト・エッセイ から

私にとって最初の本格的な読書体験は、彼等二人と、定期的に日を定めて一章ずつの読後感を語り合った旧約聖書です。
この書物についても、私はきわめて恣意的に、つまり自分の気質だけで読んでいきました。私はどんな意味ででも宗教に参加しようとは思っていなかったので、はじめから文学書としてこの本に対してしました。しかも、この経験は私にとってショックでした。私は学校にもいかず、市民社会のルールの中で生きようともせず、もっぱら自分の気質を押しとおして無頼に生きていましたので、自分の判断力だけに頼ってすごしてきました。だからその点に関しては、自分にかなりの自信を持っていたのです。私は学校の教師よりも、ある意味で自分の眼の性の方がよいとうぬぼれていました。そうして、そこから推量して、内外の大作家の著作物なども、たかが知れているようなものに思っていました。依然としてケチなフォマ・ゴルディエフだったわけです。
旧約聖書を読んで、生まれてはじめて、人間、あるいは人間たちの知恵の怖ろしさを知りました。私はもう二十六七になっていました。大方の読者には私がアホらしく見えるにちがいありませんが、このてき本当におどろいたのです。このおどろきの実感は今もってなまなましく覚えています。
私はそれまで、書物を軽視していたことを悔いました。私は、自分の本能、乃至気質の確かさをうぬぼれているようなところがあって、他人の小説など見てもその点ではさほど自分が劣っていないような気がしていたのです。頑固に自分のペースを守るという形は、私の幼少時から戦争期を通過する体験の中で自分流にものにしてきたと思っていましたから。
けれどもそれはまったく見当ちがいでした。私の場合、ボールを宙に投げているだけの形とすると、書物に書き現されている世界は(すくなくとも一級品は)ただ宙に投げているだけではなくて、投げたり返ってきたり、キャッチボールの世界だったのですね。他者とキャッチボールして葛藤するという世界でした。私はこのときはじめて、ドラマというものは、自分と自分より大きな存在、自分を律してくるようなものとの葛藤なのだと知りました。自分より大きな存在ゆえに自分が結局負けてしまうだろうと思えるものに対して、いかに戦っていくか、ということが眼目になっていて、それがとりもなおさず生きるということなのだと知ったのです。いかにピュアーになろうとも、ハネ返ってくる壁(他者)を想定せず、宙に向かって自分の気質を投げているだけではロマネスクな行為にしかすぎない。そういうことがこの書物を読んで知った一番大きなことでした。そうして、私がなんとなく読了できなかった西欧のすぐれた著作物は、ほとんど、キャッチボールの相手として、この旧約聖書を選んでいたのだということもわかりました。旧約聖書の存在を知らずに西欧の書物を読んでも、キャッチボールの全貌がわかるはずはなかったのです。そう思ってみると、これまで概念だけで知っていた西欧の書物が、それぞれ、自分たちを律してきたもね(旧約聖書)に対する尊敬と呪詛[じゆそ]の念に満ちていて、それが迫力になっていたはずだと思い返しました。
たとえば「カラマゾフの兄弟」は、旧約のヨブ記とのキャッチボールだとわかってはじめて私には迫力が出てきたのです。あのゾシマ長老がヨブと対照されるべき存在として登場しているのだとわかるまでは、私にはなじみにくかったのです。
旧約聖書に関して、そのときの私の得た収穫を列記したら、とてもこの短文では記しつくせないのですが、この書物自体がどういうキャッチボールをしているかというと、それは“神との契約”という形式でありましょう。人間は、自分たちの力以上の存在(それは時間とか生命とか、或いは自然とか、何でもよいのですが)を抽象化した“神”というものを承認しそのルールに信服していく、そのかわり、“神”も人間に幸福や安定をもたらさなければならない、そういう取引なのですね。
だから人間は、自分たちが幸福になることが神の存在の証しになるといって、いつも神に迫るのです。神は人間のその要求を満たすことによってしかその存在をあらわすことができない。しかし人間もまた、神のルールを守ることでしか、自分たちの欲求を充たす方策がたたない、そういう取引き、乃至は葛藤が、即ち生きる基本になっているということ、そういうキャッチボールなのですね。
はじめて書物をちゃんと読んだ私は、その内容に感嘆する前に、キャッチボールが欠くことのできない形式だというそのことにまず驚嘆したわけなのです。
第二に、そのキャッチボールの内容なのですが、神との契約に即したルールとはまた別個に、ほかならぬそのキャッチボールを産みだした生物世界の基本原則がひとつひとつ捕えられて、それがシチュエーションなりディテールになっている、そのことにも驚嘆しました。
それは、まず生き伸び続ける本能に支えられています。生き伸びにくい荒野で生きていくための諸条件が呈示され、その次に、如何に生きていくべきかという欲求になっていきます。
それはさまざまの記述になっていますが、一例をあげれば、“移動”ということ。先住者が居れば先住者のルールで生きなければならないから、よりよい自分の条件で生きるためには移動しなければならないわけですね。そうして新しい土地におちつく。しかしそのあとの人間たちはまた移動していく。新しい土地があるあいだは、そうやって横に伸びていけばいいわけですが、土地がすべてふさがってしまえば、その土地を移動しないで居坐ったまま変革をしなければなりません。出エジプト記に見られるような移動は、現在では変革、革命、というような形になっています。この二つの異なる言葉は、底の方では同一の行為でもあるわけで、人間が生きようとするときの根本条件でもあるわけですね。旧約聖書にはこういう原則がたくさん図型化されています。
しかも、人間たちは本当の幸福、本当の安定にたどりつきません。彼等は長年月、今に至るまで、神と契約したことの実行を迫り、同時に縛られてしまうのです。
この書物を読んだとき、私はそれまでの貧しすぎる読書体験をふりかえって、心に残っている断片を照応させてみました。私のような男も、ごく短い小説のいくてかは、すっと読了できて、印象に残っている何篇ががあったのです。たとえば、シングという人の戯曲「海に行く騎士」だったり、カフカの「変身」だったり、フォークナーの超短篇「納屋は燃える」だったり、G・グリーンのこれもきわめて短い「破壊者」だったり。
それらの小説は私自身の内部の屈託とすんなり合わさった形で、例外的にすんなり読めた小説だったと思っていたわけですが、これらの小説が私にも迫ってきたのは、第一に他者とのキャッチボール、第二に一般原則を踏まえている、この二条件を充たしているゆえと気づきました。
私がおそまきながら気づいたことは、大方の人にとってごく平凡な常識でもあるでしょう。しかし私は鮮烈な驚きをもってこのことを知りえたのです。その点では、私の読書歴の貧しさも、むしろ好条件だったかもしれません。
私はこのとき以後も、精力的な読書家になることはできませんでしたが、それから後、私なりに、長い小説や、読みにくい書物を少しずつ読んでいこうとしはじめました。そうして今にして思うのは、あるいはこれも自分に甘い言葉かもしれませんが、読書とは、結局、知識を得るということよりも、鮮烈な驚きに出遭うことからまずはじまらなければならぬと思っています。