「古書探索のマナー - 逢坂剛」中公文庫 楽しむマナー から

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「古書探索のマナー - 逢坂剛」中公文庫 楽しむマナー から

学生時代、会社員時代を通じて、神保町近辺に身をおいたため、古書街を歩く癖がついた。
その習慣は、専業作家になった今も、仕事場を神保町に構えることでしぶとく続いている。月曜から金曜まで、毎日午前11時半になると昼食をとりに、仕事場を出る。
食後は、古書街をぶらぶらと一回りして、腹ごなしをする。同じ店の、同じ棚を毎日眺めるのも、決して珍しいことではない。古書店の棚は、めったに出入りがないように見えて、実は微妙に動いているものなのだ。
ある店で、ほしい本を見つけたとする。
買う前に、考える。もしかすると、ほかにもっと安い値づけをした店が、あるかもしれない。そこで、古書街を一回りする。その結果、ほかの店では見つからなくて、最初の店にもどることになる。すると、目当ての本がタッチの差で、だれかに買われてしまい、手に入れそこなう......。
古書マニアなら、そうした悲劇に見舞われたことが、何度かあるはずだ。同じ本を探している人間が、かならず3人は存在するらしいから、油断してはならない。
わたしも、2度ほどそれで切歯扼腕
した。苦い思い出がある。そのため、今ではよほど高い値段でなあかぎり、見つけた店でただちに買う。あとで、もっと安い店に遭遇することもあるが、それで悔しがったりはしない。本もまさに、一期一会の縁なのだ。
ときたま、地方都市で古書店に飛び込むと、神保町では見つからなかった本に、出くわすことがある。珍本を、神保町よりゼロが一つ少ない値段で、入手する幸運に恵まれることも、ないではない。
しかし、最近はインターネットの発達で、海外はおろか地方都市の古書店にも、出向く必要がなくなった。おかげで、今では書斎にすわったまま古書を探索し、購入することができる。年とともに、時間が貴重になってくると、これはある意味でありがたいことだ。特に、タイトルや著者名が分かっている場合、インターネットの検索は便利きわまりない。店による価格の違いを、その場で比べることができるのも利点の一つだ。
とはいえ、古書探索の王道はやはり、古書店巡りにあるだろう。棚を漠然と眺めているとき、突然なんの関心もない本の背表紙から、オーラが発せられる。わけもなく、胸騒ぎがして手に取ると、その中にかねて探索中の貴重な情報が、眠っていた......。そういう体験が、何度もあった。この種の邂逅は、インターネットでは、望むべくもない。さらにいいのは古書店巡りはけっこう足を使うから、適度の運動ができることだ。
さらに、頑固な古書店主を相手に、本の値切り交渉をすれば、これまた頭の運動になるのではないか。