「絶対に失敗しない方法 - 土屋賢二」文春文庫 紅茶を注文する方法 から

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「絶対に失敗しない方法 - 土屋賢二」文春文庫 紅茶を注文する方法 から

わたしのエッセイを読んでいる先輩が感心したようにいった。
「毎週毎週、泉のようにこんこんと、よく次から次へとわき出てくるね、失敗が」
わたしはときどき魔がさしたように失敗する。通常、一週間に五十回ほど魔がさすのだ。たとえ何もなくても、本欄を上手に書くことに失敗している。
だが、わたしが特別に失敗しているわけではない。どんな人でも失敗はしているはずだ。だれでも、「あのときこういい返せばよかった」「もったいないと思って平らげるんじゃなかった」「おかめの刺青を入れるんじゃなかった」「結婚式に半ズボンで出るんじゃなかった」などと後悔しているはずだ。後悔しない人がいるなら、その人はわたしの妻である恐れがある。
これらは些細な失敗にすぎないと思うかもしれないが、些細な失敗でも取り返しのつかない結果になるものだ。現に、わたしは、三百個の些細な失敗と五十九万七千八百三十二個の重大な失敗によって、取り返しのつかない結果を招いてきた。
失敗に懲りて慎重に行動しても、取り返しのつかない結果になるのは同じである。たとえば「愛を告白しておけばよかった」と後悔した男が、その後、思いきって別の女に告白しても、「何を血迷ってるんだよ、このハゲおやじ」と罵倒される結果になるか、告白が実って結婚して一生を棒にふる結果が待っているのだ。「失敗は成功のもと」という格言は、「失敗は大失敗のもと」の間違いではないかと思えてならない。
しかし、失敗続きでも悲観することはない。失敗というものは、狙った通りにならないことだが、幸いなことに、人間は狙いがいつも適切なわけではない。たとえば、金が工面できなくて有望株を買いそこなった場合、しばらくしてその株が暴落したら、買うことに失敗したのが幸いだったといえる。
失敗を恐れなくていい理由として、さらに、失敗と成功の境目がそれほどはっきりしていないことがあげられる。
たとえば、あこがれの大学に合格した男が、一流企業に就職し、評判の美人と恋愛の末に結婚したら、成功といえるかもしれない。だが、その後、子どもが全員グレて、妻と一緒になって家庭内暴力をふるうようになった上、会社が倒産し、アルツハイマーの症状が出てきた場合、全体としてこの男は成功したのだろうか。
よく、「成功したかどうか、幸福かどうかは、死ぬときにならないと分からない」といわれるが、死ぬときになっても全体として成功だったかどうかは分からないだろう。たぶん、死ぬときになったら、成功だったか失敗だったかどちらでもよくなるのではないかと思う。
そもそも、何が成功で何が失敗なのだろうか。バントに失敗してヒッティングに切り換えたらホームランを打った場合など、失敗なのか成功なのか。
成功と失敗の区別がはっきりしないのは、成功・失敗を測る尺度が多数あるからだ。金、権力、名誉、家庭の平和、愛、健康、長生き、静穏などのうち、どれを目指すかによって、同じことが成功とみなされたり、失敗とみなされたりするのだ。
たとえば権力争いに敗れても、静かな生活を送ることには成功する。家族が離れ、友人がいなくなっても、人間関係の悩みから解放され、だれからも文句をいわれずに花鳥風月を味わうことには成功したことになる。リストラにあっても、仕事の上では失敗だが、好きなだけ寝ていられる点では成功だ。極端にいえば、財布を落としても「これで当分、落とさないですむ」と胸をなでおろしてよいのだ。
これを応用すれば、あらゆる失敗を避けることも不可能ではない。失敗とは、狙い通りにならないことだから、失敗を根絶するには、何も狙わないようにすればよい。それが無理なら、結果が出た後で狙うようにすればよい。失敗だといわれても「この結果を狙っていたんだ」と主張すればよい。
少なくても成功・失敗には淡々としていたいものだ。失敗を恐れすぎて、どんな選択にも「ここで失敗したらおしまいだ」と深刻に悩むのは見苦しい。
助手に、
「ブラピに結婚を迫られるのと、男には相手にされないが才能に恵まれるのとどっちがいいか」
と質問したら、三日後にもまだ悩んでいた。