(巻二十七)どちらかと言へば麦茶の有難く(稲畑汀子)

f:id:nprtheeconomistworld:20201018081659j:plain
(巻二十七)どちらかと言へば麦茶の有難く(稲畑汀子)

10月17日土曜日 

写真は東禅寺三門門前の掲示でございます。

一昨日が一万歩超え、昨日が六千歩でしたから心地よい疲れを覚え、良い眠りを頂いた。
血圧も下がりめでたしめでたし。


午前は風呂場の排水口の掃除、四部屋の掃除で終わる。午後は籠る。
随筆エッセイを読んでいると、「へぇ~」と知って嬉しくなる言葉に出会う。なかなか自分の文章の中には織り込めない高貴な言葉であるが、最近邂逅したのは以下の言葉である。

 『邂逅[かいこう]=出合うこと、出遭うこと』

 とはいえ、古書探索の王道はやはり、古書店巡りにあるだろう。棚を漠然と眺めているとき、突然なんの関心もない本の背表紙から、オーラが発せられる。わけもなく、胸騒ぎがして手に取ると、その中にかねて探索中の貴重な情報が、眠っていた......。そういう体験が、何度もあった。この種の邂逅は、インターネットでは、望むべくもない。さらにいいのは古書店巡りはけっこう足を使うから、適度の運動ができることだ。

 「古書探索のマナー - 逢坂剛」中公文庫 楽しむマナー から


『切歯扼腕[せつぱやくわん]=悔しい思いをする』

買う前に、考える。もしかすると、ほかにもっと安い値づけをした店が、あるかもしれない。そこで、古書街を一回りする。その結果、ほかの店では見つからなくて、最初の店にもどることになる。すると、目当ての本がタッチの差で、だれかに買われてしまい、手に入れそこなう......。
古書マニアなら、そうした悲劇に見舞われたことが、何度かあるはずだ。同じ本を探している人間が、かならず3人は存在するらしいから、油断してはならない。
わたしも、2度ほどそれで切歯扼腕
した。苦い思い出がある。

 「古書探索のマナー - 逢坂剛」中公文庫 楽しむマナー から

『瞞着[まんちやく]=ごまかすこと、だますこと』

《 一ツの取り処なし しかるになほ何を苦しんでか言文一致をなすや、これを無暗に主張する人、主張者にそそのかされて尻馬に乗る人、実にも哀れなる人々かな 彼らは尋常の文章を作り得ざるがためには非るか、彼らは奇を好み新を誇り匹夫匹婦の愛顧を買はんと欲する者にはあらざるか、咄[とつ]、奴輩何をかなす、彼れよく三千八百九十九万九千九百九十九人を瞞着し得るとも 残りの一人を瞞着し得ざるなり 咄、奴輩何をかなす》

 「筆まかせ(書抜其の三) - 正岡子規 岩波文庫 筆まかせ から

○言文一致の利害


『叩頭[こうとう]=頭を地につけてお辞儀すること』

《 「君の態度は客に対してなっていない。客を見下している。非常に無礼だ。つつしみたまえ」とまくしたてた。
私はあっけにとられてしまった。相手の言い分が理解できない。客を軽蔑するような物言いも、動作もしなかったはずである。ごく普通に「ありがとうございました」と礼を述べて、軽く頭を下げただけである。頭の下げ方が浅すぎるというのだろうか。
しかし商人に口答えは禁物である。釈然としないまま、私はわびを言い、深々と叩頭[こうとう]した。客がいきなり声を荒らげたわけは、じき判明した。》

 「いろんな人 - 出久根達郎」文春文庫 95年版ベスト・エッセイ集 から

 
 『疑懼[ぎく]=漠然とした不安』

《 庄兵衛はいかに桁が違[たが]えて考えてみても、ここに彼と我との間に、大いなる懸隔のあることを知った。自分の扶持米で立てて行く暮しは、折り折り足らぬことがあるにしても、大抵出納[すいとう]が合っている。手一ぱいの生活である。しかるにそこに満足を覚えることはほとんどない。常に幸いとも不幸とも感ぜずに過ごしている。しかし心の奥には、こうして暮していて、ふいとお役が御免になったらどうしよう、大病にでもなったらどうしようという疑懼[ぎく]がひそんでいて、折り折り妻が里から金を取り出して来て穴填[あなう]めをしたことなどがわかると、この疑懼が意識の閾[しきい]の上に頭をもたげて来るのである。》

 「高瀬舟(抜書) - 森鴎外」中公文庫 教科書名短篇 から


『瞠目[どうもく]-目をみはること』

《 欧米の書評とくらべて、日本の書評はまだまだ歴史が浅いため、ずいぶん軽んじられてゐる。時間と労力を要するわりに報酬はすくなく、しかも極端に短い書評文として仕上げなければならない。その悪条件を口実に使つて、書評者はいろいろと手を抜きがちなのだが、その点、平野の誠実な努力はほとんど瞠目に価するくらゐである。》

 「書評の条件 - 丸谷才一ちくま文庫 快楽としての読書 から

『 気圧[けお]され』

《「京都のふるい料理屋は、むかしから初対面[いちげん]さんを入れないといいますね、あれはなぜですか」
と、清水の古い料亭で、おかみさんをつかまえて、きいたことがある。あどけないほどの笑顔だった。
おかみさんのほうもこのあどけなさに気圧[けお]され、ついしきたりという神秘的な膜を張ることなく、明晰に答えた。 》

 「魚の楽しみ - 司馬遼太郎岩波書店 エッセイの贈りもの4 から

斃れてのち已む』 

《 荷風最晩年の『日乗』の原型はここにある。荷風さんは鴎外先生と命日を同じくすることを若いときから望んでいた。老いていよいよますますそれを希求し、それで鴎外にならって《陰。正午浅草》をえんえんと書きつづけたのである。
以上再説。というわけで、この推理に今度は、すでにふれたように、文化勲章を貰ったのはまさしく『断腸亭日乗』全巻ゆえ、との確信が加わる。斃れてのち已む、なのである。「正午浅草」の書きつがれた理由は十分に解明されたものと勝手に考えている。》

 「飾り立てた霊柩車で...... - 半藤一利ちくま文庫 荷風さんの戦後 から

『以て暝[めい]すべきところであろう。-もう死んでもよいと思うこと→満足すること』

 「わがアンチ・グルメの弁 - 林望ちくま文庫 あさめし・ひるめし・ばんめし-アンチ・グルメ読本- から

無限に存在する諸現象を、あまねく知ろうとしたところで、人生はあまりに儚[はかな]い。一人の人間の為しうることは九牛の一毛、おのずからほんの僅かのことに過ぎぬ。
まずはそう悟道するところから始めなくてはならぬ。
そうして、その朝顔の露のように儚い有限の人生を以て、無限の現実に立ち向かおうとするのは、蟷螂[とうろう]の斧にも似た無謀なる挙だけれど、いや、それが人生というものの実相にほかならぬ。だから、ほんのわずかのことを知り得て、ほんの数軒の名品を舌頭にし得たならば、以て暝[めい]すべきところであろう。

願い事-叶えてください。