「十読は一写に如かず - 柴田錬三郎」柴田錬三郎選集18随筆エッセイ集 から

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「十読は一写に如かず - 柴田錬三郎柴田錬三郎選集18随筆エッセイ集 から

まるっきり読書をしない人間に、ぶっつかると、むかしから、どうも奇妙な気がしてならなかった。殊に、青年のころは、そういう人間を、完全に軽ベツすることにきめていた。読書しない人間など、無価値な存在で、そういう奴が、平気な顔をして、世の中を生きているのが、不思議でならなかった。こういう偏見は、いまでも残っている。
読書が、必ずしも人間にとって最大重要条件でないと、わかって来たのは、ごく最近、大工の棟梁や呉服屋の番頭などとつきあいはじめてからである。ひとつの仕事に年期を入れた人の、滋味あふれる容貌や態度や、そして自己流につかんだ人生観は、読書亡者たる私などの足もとにもおよばぬ美しさがあるからである。
思うに、私など、なまけ者で、天稟[てんぴん]というやつを与えられていなう凡夫だから、絶えず、かたわらに、書物を置いていないと、不安でしかたがないのである。これは、あきらかに、凡夫の劣等感であって、乙夜[いつや]の覧などとは、全く趣きを異にするのである。つまり、無学な奴に限って、むつかしい言葉を使いたがる。大工の棟梁は「あっしのような大工は -  」とへりくだって云うが、かけ出しの大工は「僕たち建築業者は - 」とひらきなおる。私が、絶えずかたわらに書物を置いていないと不安でしかたがないのと、同じ理[ことわり]である。
杜甫の文句ではないが、読書万巻を破る、などというわざは、凡夫の能[よ]くするところではない。私など、顧て、自分の読んだ書物など、ひとにぎりにも足りない。ひそかに思うに、文士などという者は、その一生における読書量など、ほんのわすがなものではないのか。いったい、古人のように、「読書甚解するを求めず」とか、「読書百遍おのずから見ゆ」とか、という忍耐は現代人としては、不可能である。自分にむつかしすぎる書物とか、肌にあわない書物とかは、どうにも、幾度手にとっても、途中で、なげ出してしまう。私も曾[かつ]て、『戦争と平和』を、十数たび、読みかけては、ほぼ同じ枚数までめくっては、なげ出してしまった。結局、読了したのは、船舶兵になって、輸送船で南方へ行きつく船上においてであった。ほかに、読むものがなかったからである。そして、読了してから、やれやれ、と思っただけで、大した感銘を受けなかった。肌にあわなかったのである。古今の名作であるから、読んでおかなければ義理がわるい、といったやりかたは、あまりほめられたことではない。読みにくくて、面倒くさければ、なにも、ひどい忍耐をして、読む必要がないのではあるまいか。それが、読んでいないことの劣等感から「読書」といういとなみを、いつの間にか、人生の最大重要条件として、とりあつかうようになる。

「十読は一写にしかず」というが、まさしく、そうらしい。私は、敗戦直後、何もすることがなくて、永井荷風の小説を、いくつか、写してみたことがあった。これは、非常に、のちに、自分の文章上に、役立つ勉強となった。写してみると、荷風の文章の長所と欠点が、はっきりとわかった。古人が、名文をものし得たのも、筆写という仕事をしたからに相違ない。ことわっておくが、私は、当今の「やさしい文章」に賛成して、こんなことを述べているわけではない。
アランは、「言語について」で、言語のたわむれが、どんなに巧みに精神を陥穽[かんせい]に引き入れるか、と云っている。アランは、言葉というものの本質を説いているのだが、書物の中で極度に発達した言語は、声でしゃべる言語とは、その情熱の出処がちがってしまったので、私たち文士は、そのへだたりをちぢめようとするが如き愚を演じてはならない、と思う。すなわち、私は、ようやくにして、「読書」に対する劣等感を、正直に大切なものにして、これから、本当に文章というものを真剣に考えようとしている。世間の風潮が、しゃべり言葉を、書物の中へ、むりやりになげ込もうとすればするほど、書き言葉をもって、文士たるの一分を立てようというわけである。古人が、千年の年月を費してつくりあげた文章の美を、そうかんたんに破壊されては、たまらないではないか。