「金とはなにか - 養老孟司」文春文庫 涼しい脳味噌 から

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お金くらい、変なものはない。なぜなら、本来どうして交換可能かと思われるような対象が、お金を媒介にすれば、平気で交換されてしまうからである。
私が大学で働くと、ただいまのところ、一カ月に手取りで四十数万円下さる。ただし、その金額の算定根拠は、私にとっては不明である。おそらく、だれにとっても不明であろう。なぜなら、働いても働かなくても、ほぼ同じくらいの額をかならず下さるからである。もっとも、それが、官庁の取り柄といえば取り柄である。
そもそもお金は、なぜ交換の媒体になりうるのか。それは、ヒトの脳がそうできているからである。脳という臓器は、その内部で、もともとはとうてい交換不能なものを、強引に交換してしまう。たとえば、目から入る刺激は、物理的にいえば電磁波だが、脳はそれを、音つまり空気の振動と等価交換する。それが視覚言語と音声言語である。「あ」という形に発する、電磁波の信号が、「ア」という音と等価に交換される根拠は、脳がそれを実際に等価交換しているはずだ、という事実以外にない。脳は、そのいずれをも、神経細胞の信号に交換する。だから、音と光とではなく、信号と信号とで、交換が可能になる。お金はじつは、その信号が、いわば単に外界に出たものに過ぎない。ヒトは、自分の脳を、外部に「投射する」のである。
幽霊であれば、脳が自分のイメージを外界に投射したのだということは、たいていの人が気がついている。しかし、お金というのは、紙幣であれ貨幣であれ、それなりの実体になっているから、脳の投射だとは考えにくい。それでも、紙幣を燃やして見れば、それがただの紙にすぎないことはよくわかる。だから、お金自体に、意味はまったくない。それは、信号それ自体がまったく意味を含まないのと同様である。信号の通る経路を、継ぎ変えることができたとすれば、信号の意味はまったく転換してしまう。
私が子供の頃は、物不足、さらにインフレ、新円切換などということがあったから、ミカン箱に一杯、お札があっても、無益な場合があることを知っている。いまの若い人には、そういう感覚は欠けているかもしれない。私にとって、お金はしょせん、人間の約束事にすぎない。ただし、いまではそれが、別な実体感を持つようになった可能性はある。お金の世界に暗黙の実体感が生じたことが背景になって、お札を「金」と交換するという、兌換券が無くなったのかもしれない。
現代はシミュレーション社会だとか、疑似現実の社会だとかいうが、それは、現代社会が、身体というより、脳に似てきていることを示している。つまり、脳の中では、すべては疑似現実であり、すべてはシミュレーションだからである。その象徴がお金であって、現代社会が、お金を中心に動くような気がするのは、倫理観が変化したからではない。社会が脳に似てきてためである。
現代社会は、要するに、より抽象度の高い世界である。いまの人間が、身体と頭のどっちを余計に使うかといったら、多くの人が、そうとは意識せずに、頭の方を昔より余分に使っているだろう。
テレビを見るという一見単純な行為ですら、頭を使わなくては出来ない。手足を使って、テレビを見るわけには行かない。受験戦争が大変だというが、以前よりは頭を使わなくては、生きていけない社会を作ってしまったから、仕方がない。
ボケの問題が深刻になるのも、頭の重要性が増したからである。昔は、カマドに火をつけた上で、その事実をすっかり忘れても、同時に薪を加えることも忘れてしまう以上、火が燃え続けることはなかった。しかし、いまではいったんガスに火をつけたら、消すという操作を加えるまでは、ガスが燃え続けることになる。だからボケが大変なのである。
お金の問題とは、私からすれば、典型的な「信号問題」である。お金を現実と思っている人は、そうは思わないかもしれないが、それは、自分の手元、つまりお金の動きの末端だけに注目するからである。それは脳の場合も同じであって、感覚だけに注目すれば、現に感じられる以上、すべては現実だということになる。しかし、感覚だって信号としていったん脳の中に入ってしまえば、あとは「八幡の藪知らず」である。
信号の問題点は、その意味で、途中から現実がどこかに飛んでしまうことにある。お金がお金を生んだりするのは、脳の中で信号が増幅されるのと同じであろう。脳の中で極端に信号が増幅される病が、癲癇である。現代社会における、お金の増幅は、ほとんど癲癇の前駆症状に似ている。ドストエフスキーを読めばわかるが、軽い癲癇は、天国にいるような恍惚状態を感じさせることがある。株で儲けたりすれば、恍惚状態になる人も多いのではないか。
お金の動きそのものが、脳の中の信号の動きによく似ているので、たかがお金の動きに関する議論が、ときどき哲学や神学の議論に近くなるのであろう。こうした学問は、「ことば」という脳内の信号間の関係を、その信号そのものを使って議論する。際限なくモメるのは、そのせいである。
頭の中を信号が飛び回り、変なものが等価交換される。その法則性がわからなくて、お金の動きの法則性がわかるはずがない。その法則性をあっちに置いて、お金の動きに正義や倫理を期待しても、おそらくムダである。頭の中のハエが追えないのに、外に出たものが統御できるはずがない。宗教裁判を行なった人たちも、世界では良識派だったであろう。ただそれでも地球は回った。問題は、天界の動きを、神の定め給うたものとして、聖書にある通りとする態度から生じた。お金の物理学は、いつ生じるのだろうか。