「芸者の玉代 - 野口富士男」ウェッジ文庫 作家の手 から

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いま「玉代」を「ギョク代」と読める読者は幾人いるだろう。半年ほど前、早大平岡篤頼教授に会ったら、学校で文庫の「花柳小説名作選」をテキストにして講義中だが、学生は「半玉」を「ハンタマ」と読むと言っていた。玉代も半玉も花柳界だけの特殊な用語だから、読めなくて当然である。
国語辞典で「玉代」をみると「芸妓・娼妓の揚げ代」とあって、「あげる」の用例をみると「芸者を座に呼んで遊興する」と出ている。単位は土地によって一時間と二時間のところがあるが、玉代とは芸者を座敷へよぶときの一定時間の基準料金である。芸者を一人よぶときの定価と思えばいい。
また芸者、半玉は関東のよび方で、関西では芸妓[げいこ]、舞妓[まいこ]であり、玉代も関西では花代、新潟あたりでは芸代[げいだい]という。そして、一人前の芸者に対して見習に相当する未成年者の玉代はほぼ半額(別表参照[別表割愛])なので半玉といわれる。京都の舞子はんにあたる。
話がすこし学問的になったが、戦前派の私などには徴兵検査があったので、それが済まなくては遊べなかった。性病があると、翌年再検査されたからである。私が検査を受けたのは昭和六年だから、別表でいえば七年、玉代が三円の時代だが、この表をみても、そうだったのかと思うだけで実感がわかない。
永井荷風の名作の一つに『あぢさい』という短篇がある。ストーリーの紹介は略させてもらうが、女主人公は下級の芸者で、荷風は彼女を「箱無しの枕芸者」と書いている。箱とは三味線だから、三味線もひけなくて客と寝るだけの芸者の意味である。そういう芸者はミズテンと呼ばれて、「不見転」という文字が宛てられた。私などが遊んだ芸者はそのクチで、戦前といえども、それは非合法の秘密な遊びであったから、正規な遊びにだけ支払われる玉代とはカンケイがなかった。私が玉代を払ったことがないゆえんである。
これについても説明を加えておくと、戦前の芸者には玉代のほかにも祝儀という料金があって、「玉祝儀」というよび方をされたが、その祝儀が枕金だったわけである。芸者屋は新しい芸者をその土地の座敷に出すとき、お披露目といって待合(戦後は料亭という)へ抱え主と箱屋(三味線を芸者屋から待合へ持っていく見番の雇い人)がついて挨拶にまわるとき、手拭いと名刺を一軒一軒くばるが、その名刺の裏に五とか六とか書いておく。それが祝儀すなわち枕金の額で、昭和十年前後でいえば五円とか六円を意味した。売春防止法が実施されてから、花柳界には表面上これがなくなった。
別表は「週刊朝日」編集部の調査だが、私が別のルートで入手した現在の資料はもうすこし複雑で、玉代のほかに約束料というのがつく。それはホステスの指名料と同じで、誰と指名しなくても機械的に加算される。九段では玉代三千円で約束料が二時間八百円、神田では四千円と一時間五百円、神楽坂では三千八百円と二時間五百円で、大木戸、十二社[じゆうにそう]、駒込などでは約束料を掛口[カケクチ]という。また右の玉代は料亭が客に請求する料金(公給証)で、芸者の手取りは九段が三千円、神田が三千四百円、神楽坂が三千円百五十円のほか、別に芸者が三十分以内に座敷を去る場合は半伝といって、九段の半伝は二千円、芸者の手取りは千八百円、神楽坂は二千三百円と千八百円というふうである。私の手許には二十五土地の資料があるが割愛する。
以上のほか尾久、大塚、池袋などでは三味線をひかせると糸代というものを請求するので、別表をみて白山なら芸者を一時間よんでも三千五百円で遊べると思うと大間違いである。だいいち、これには料亭の席料が入っていない。料亭だから飲食料もとられる。料亭の一、二時間の勘定はウン万円である。
また、玉代だけでは土地の一流二流の判断はできない。たとえば昭和四年における新橋の玉代は二時間で六円六十銭、柳橋の同五円に対し白山は一時間二円九十銭だから、単純計算では二時間五円八十銭で柳橋より高くなる。芸者遊びでは他の諸経費が問題で、別表からはそのへんのところがうかがわれない。但し一土地だけに限れば、値段のうつりかわりの参考には十分なる。
うどん・そばのもり・かけ代金や米の値段で物価の変遷を表すことが多いが、別の角度からみて私は戦後いちばん高くなったのはオンナの値段だと思う。昭和初年代の学卒者の初任給は六十円の時代に玉の井のショートタイムは二円だったが、現在の初任給を平均十万円としてトルコが三万円だから、戦前は一カ月の給料で三十回遊べたが、今では三回強しか遊べない。別表の昭和七年における玉代三円にしろ、今は三千五百円だから千百十六倍ということになる
私は田辺茂一さんに「安いうちに遊んでおいてよかったですね」と言われたことがあった。

週刊朝日」昭和五十七年一月八日