「唐招提寺との歳月 - 永井路子」ベスト・エッセイ2006 から

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「歴史の顔」を見てしまった!
もの書きとして稀有な好機に恵まれたのは一九七〇年。唐招提寺講堂の解体調査の現場での体験を、私は一生忘れないだろう。
ある小冊子の執筆依頼で、かねて大ファンだったこの寺を訪れたのは春先だったろうか。知人に頼んで奈良文化財研究所(当時)の坪井清足氏に紹介してもらい、さらに坪井氏から現場主任の石井典孝氏を訪ねるよう助言をいただいた。
「いま全面解体調査中ですよ」
と言われて、まあ、と驚く程度の素人ファンにすぎない私だった。果たせるかな、あの優雅な講堂の姿はなく、大きな覆屋[おおいや]の中に、古材が積みあげられ、土まみれの礎石が露出していた。そのころ建替中だった平城宮内の東朝集殿[ひがしちようしゆうでん]を移築したのがこの講堂、ということぐらいは知っていたが、さらに礎石から少し離れて、整然と敷きつめられた小石の列があった。
「これは雨落溝[あめおちみぞ]です。門の跡もありまして」
石井氏にそう伺ったときが「歴史の顔」を見た瞬間だった。 
小冊子にもそのことを書いたが、以来、より唐招提寺に吸いよせられていくうち、さまざまの謎に突きあたった。
歴史ものを書くとき、史料を読む、年表を再検討する、系図を作り直すなどは基礎作業の手始めである。面倒でしょう、といってくださる方もあるが、これがなかなか楽しい。思いがけない発見があるからだ。
そこで浮かびあがってきたことの一つは、鑑真の来日を大歓迎した聖武天皇が、遺詔によって彼を宗教省の大臣ともいうべき大僧都に任じるが、聖武の死後まもなく解任されたこと。さらに鑑真は来日以来、戒律伝授の最高指導者(戒和上)だったが、それも解任されたこと。いずれも老齢をいたわって、という理由だが、明らかな敬遠である。聖武の死を機に歴史は大転換し、鑑真も退隠を余儀なくされたのだ。
この鑑真に与えられたのが右京の新田部親王の旧宅 - これが現在の唐招提寺の地なのだが、実は新田部の死は二十数年も前のことで、残っているのは二、三の小屋。唐招提寺など影も形もなかった。
しかも問題の地たった。ここに「歴史の顔」を重ねてみると、そこに仕切りの堀があり、明らかに土地は二分されている。とすれば、ここにいたのは?
鑑真研究の第一人者、安藤更生氏は、新田部の第二子道祖[ふなど]王の可能性を指摘しておられる。氏は一九七〇年亡くなられているから、遺跡は目にされておられないと思うのだが、その炯眼[けいがん]に敬服しつつ、道祖の身辺を見つめなおせば、彼は凄惨な政争の犠牲となって非業の死を遂げている。この地が没収されたとすれば二、三の小屋しか残っていなかったのも当然で、この禍々[まがまが]しい空地を鑑真は与えられたのだ。

これが、命を賭して来日した高僧への好遇といえるだろうか。そのころから、私は渡来以後の鑑真の周辺を書きたいと思い始めた。
それにしても、残りのもう一方 - 現在の金堂の地は?くわしいことは省略するが、ここに道祖の兄、塩焼[しおやき]王が住んでいたらしく、彼もまたその後の政争の渦の中で殺されている。
もっとも、その死は鑑真遷化の一年後だから、金堂の創建を見ることなく鑑真は世を去ったのではないか......。
鑑真の死後、残された弟子たちは、いよいよ苦境に立たされる。そこにあるのは東朝集殿を移した講堂のみ。鑑真に与えられていた供養料もなくなり、このままでは滅亡しかない。
唯一の道は、寺として形をととのえ、官の援助をうける定額[じょうがく]寺として生きのこること。そのためには、まず金堂を造らねば......。苦悩の選択の上での金堂創建は、塩焼の没後、なお住んでいたかもしれない妻の不破内親王(聖武の皇女)が追放された七六九年以後?そう思い定めて拙作『氷輪』を執筆したのは一九七九年。「歴史の顔」を見てから十年近く経っている。
このとき、私は金堂について、「講堂のように解体修理が行われ、地下遺構をたしかめた上でなければ」建立の時期はわからないが......と書いている。
たしかに一種の賭ではあった。幸い文学賞も受賞したものの、この問題提起には賛成論は聞かれず、依然として金堂創建は鑑真の生前などという説が幅をきかせていた。
ところが、二〇〇〇年から金堂修理のための解体作業が始まると、なぜか、研究者の中から、金堂創建は七七〇年を遡らない、という説が浮上してきた。有力な味方が出現したわけだが、それよりも、私の願いは、
「金堂下の歴史の顔が見られないものか」
ということだった。が、今回は地下遺構の調査は行わないという。僅かに見せていただいたのは、金堂の端にある地下遺構の柱の穴だけ。ひどく落胆していたら、昨年思いがけない調査結果が発表された。年輪測定法という新しい科学的方法で、金堂の屋根を支える地垂木[じだるき]の一部が七八一年のものと判明したのだ。従って落成は七七〇年をさらに下ることが確定した。
過日寺を訪れて、この地垂木の、乾いた、ほのかなぬくもりに触れさせていただいたことによって、どうやら私の「歴史の顔」を探[たず]ねる旅も終ったようである。