「小股の切れ上った女/小股の切れ上った女、再考 - 淮陰生[わいいんせい]」日本の名随筆別巻74辞書 から

 

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「小股の切れ上った女/小股の切れ上った女、再考 - 淮陰生[わいいんせい]」日本の名随筆別巻74辞書 から

【参考】巻末の著者紹介を転書いたしておきます。

淮陰生(わいいんせい)
生年不詳
左記の書は、一九七〇年一月から八十五年一月まで、「一月一話」「続一月一話」と題して「図書」誌に連載された文章を一冊にまとめたもの。題は蜀山人大田南畝の『一話一言』のひそみに倣い、筆名は漢の武将・韓信の別称・淮陰候に由来するという。文章は軽妙酒脱、時に寸鉄人をさす。かなりの手練れと思われるが、その正体をめぐって、当時から反響を呼んだ。

小股の切れ上った女

すらりと背が高く、おきゃんで小意気な女を評した古い言葉に、「小股の切れ上った女」というのがある。では、小股が切れ上ったとはなにか、ということになると、どうもよくわからないのだ。念のために国語辞典類に当ってみた。『大言海』によると、「女ノ背ノスラリト高キヲ云フ」とあるだけであり、『言水』はといえば、これもまた「丈のすらりとして小意気なるさま(女にいふ)」とあるだけ。いずれかがいずれかの踏襲であることは明らかである。(『大日本国語辞典』にいたっては項目もない。)そのほか中辞典クラスも数種当ってみたが、新しい知識はなにもなかった。
小股はもちろん股であろう。その股が切れ上ったといえば、さしずめ八等※身ということにでもなるのかもしれぬが、ミニ・スカートの当代ならしらず、江戸時代の女の服装で、脚部の長短を推知するなど、あまりにも機微にすぎる。どうもわからないのである。
ところが、故平山芦江氏の随筆「大江戸の迷児」というのを読むと、次のような具体的語源説が出る。元吉原のある老遣手婆さんからの伝聞話として紹介されているのだが、それによると、もともとは廓[さと]言葉から出たものだとある。周知のように、花魁には道中というものがあったが、まだ突出しの時代には内八文字という踏み方をするが、これがお職ともなれば、外八文字を踏むようになる。
内八文字と外八文字と、踏み方の解説までしている暇はとうていないが、踏み方、つまり、歩き方の内外といえば、たいてい想像はつくかもしれぬ。
要するに内八文字は歩幅も小さく、すべてしおらしく見えるが、それに対して外八文字となると、当然歩幅も大きく派手になるというのだ。女らしさ、色っぽさを失うことなく、しかもこれを小気味よく、きりりと踏むというまでには、相当な修練を経なければならぬ。さてこそ鮮やかに外八文字の踏めるようになった花魁のことを、小股の切れ上ったと評するようになったというのだ。なるほど、これなら、修練による股関節あたりの変化ということも考えられるかもしれぬ。必ずしもスカートのぞきまでの必要はないようである。
ところで、断っておくが、なにも淮陰子、この平山説を決め手の語源として紹介しているわけではない。これもまた「だろう解」の一つとして引いているにすぎないのだ。
むしろ淮陰子の言いたいのは、そもそもこの国での国語辞典なるものの編集方法に関してである。いずれこの言葉、江戸の末期の遊里言葉として生れたものであろうことは、ほぼ察しがつくが、では、辞書編集者たるもの、なぜまず軟文学類からの徹底的用例蒐集からはじめないのだろう。それをやらぬから、一人合点の「だろう解」になったり、先行辞書の引き写しというだけの醜態になってしまうのである。この国国語学の致命的欠陥といっても言いすぎではないのではないか。

 

補注 次頁の「再考」とともに、もっとも反響の多かった項目である。いま数えてみても十五通近くに上っている。ところが、その内容たるや文字通りの各人各説、諸説紛々で、結局確実なことはわからないということだけがわかった。国語辞書ばかりを責めることもできないようである。なにぶん多数の来信なので、とうていここですべてを紹介することは不可能だが、要するに問題は大別すれば「小股」云々をそのまま直接ヨニに関連させて解釈するか、あるいはより広く脚部全体について言ったものととるか、その二点につきるようである。(もっとも、小股を「襟足」と解し、わざわざ自筆図解まで添えて、「襟足の切れこみの深い美人」との教示を賜った読者もあるが、これだけはたしかに異色解釈だった。)
そんなわけで、来信のすべてを紹介することはできぬが、いま一つ、実は淮陰子も事後になって遅ればせに承知したのだが、とにかく活字になっているものに古川柳研究家岡田甫氏の主宰されていた『近世庶民文化』誌があることを知った。とりわけ第七七号(昭和三十七年六月)などは、四篇の小特集をこの話題で組んでおり、ほかにも第一〇号、第一一号、第七九号、第八三号、第八五号などにも関連寄稿がある。だが、それでも甲論乙説には際限がないようで、最後は岡田氏自身が「『小股』私見」の一文で、一応の打ち切りを宣しておられる。ただこれらで淮陰子め改めて教えられたのは、どうやらこの言葉が弘※く口の端にのぼるようになったのは、岡田氏も言われるように、明治以降のことらしく、江戸期での文献用例は意外に乏しいという一事だった。とにかく厄介な言葉のようである。

 

小股の切れ上った女、再考

 
一昨年(一九七一年)の本誌十二月号であった。やはりこの欄で、この言葉について書いたことがある。以来この一文ほど、読者諸氏から多数の反響をお寄せいただいたものはない。結論は、げんざいもなおよくわからぬにつきるのだが、その後淮陰子自身新しく寓目した文章もあり、またそれら反響から示された新解釈もあるので、いま一度取り上げてみる。
小股の「股」が文字通りの股であり、「小」が指小接頭語で(副詞的な意味をも含めて)あることについては、あまり反対意見はなかったが、同じ股にしても、これが女性性器のある特定部分を指すという教示は、正直にいって初耳であった。が、これはどうやら故柳田国男氏などもその見解だったらしく、その辺のことは、池田弥三郎氏『言語のフォークロア』にも見える。そのまま引用したほうがよいと思うから引くが、「それによると、『こまた』はやはり身体の部分であって、その線がたてに深くはいっている女のことで、それは結局『床よし』の女のことをさす」というのだ。しかも池田氏は、この見解を知って、「以来、今までのわたしの意見が動揺し......もう少し考え直しはじめているところ」だといわれる。すると、股は股でも、これはきわめて特殊な局部に関する一種のeuphemismということとなる。が、ただほかに同種用例の挙げられていないのが残念である。
新しく淮陰子の寓目したものに、木村荘八氏の随筆『しばや・モード・粋』がある。「女がソク(足を割らないでまっすぐに立つこと)で立つ場合に、内輪の足つきは、足が両方からつくに反して、踵は双方離れる。この間にスキ間があいて、『小股が切れ上る』のである - と僕は解釈する」とある。ちょっと意味のとりにくい点もあるが、股を素直に股としている点では、だいたい通説通りと見てよかろう。
驚いたのは、小股は「眼じり」に疑いなしとのお叱りであった。したがって、小股が云々は、「眼が切長で妖艶な女」というほどの意だというのだ。なるほど、わかりよくて好都合ではあるが、さて、小股が眼じりとする根拠はどこにあるのか。これまた同種用例をもっと挙げていただかぬかぎり、いくら尤もらしくても、オイソレとすぐ納得するわけにはいかぬ。
一昨年の一文を書いたとき、淮陰子の言いたかったのは、その折りにもちょっと触れたように、わが国の国語辞書編集というのに、まったくといってよいほど、歴史的実証の方法が欠けているという遺憾であった。すべてが編纂者の主観的解釈なのである。これではいくら新辞書が出たところで解決はない。こんどまた大部な国語辞典が出るようだが、この項目など、とんなことになるのか注目したい。問題は方法論そのものの根本的反省にあるのであり、単に収録語彙の豊富さだけを自慢するのは、辞書編集法として、少なくとも一世紀近く世界の大勢におくれているといってよいであろう。