1/2「チャップリンからキートンの世界に向けて - 赤塚不二夫」日本の名随筆60 愚 から

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貧乏生活が長かったせいか、東京に出てきてからトキワ荘時代にかけて見た映画は、その逆に陽気なアメリカ映画が圧倒的に多い。
ミュージカルと西部劇がその代表である。
けんかの場面がいつも面白いジョン・フォード物は繰り返し見た。
ミュージカルも片っ端から見たものだ。『野郎と女たち』は忘れられない作品だ。
王様と私』も特に気に入ってしまい、石森と池袋へ何回も見に行き、五回だ、おれは六回になったぞ、などと競争したものである。結局七回は見てしまっただろうか。
こうして、ぼくはケンランゴーカであればとにかく楽しいといった調子だったが、そのうちにチャップリン映画に出会ってドキリ!とし、じ~ん......と心を締めつけられることになった。
そしてこれがぼくの漫画のお手本なのだと心に誓ったものである。
『黄金狂時代』『キッド』『犬の生活』『モダンタイムズ』『殺人狂時代』『ライムライト』『独裁者』 ー 少数の作品を除き、どれもこれも絵面[えづら]、ストーリイは貧困を扱い、おなじみの乞食チャップリンが大活躍しているわけだが、彼をみていると、何か心の中が豊かになってくるのだ。
チャップリンは彼の自伝の中で、こんなことを書いている。

喜劇のプロットをつくりあげるわたくしの方法は、いたって簡単だった。人間を苦難に突っこんでみたり、また引きだしてみたりする、ただそれだけのことだったのである。
ところがユーモアとなると、だいぶちがって、もっと微妙になる。マックス・イーストマンが『ユーモアというもの』という著書の中で、その分析を試みているが、その要約によると、ユーモアとは滑稽な苦痛から生まれるとある。つまり、彼は言うのだ - ホモ・サピエンスは本来マゾヒストであり、いろんな形で苦痛というものを楽しむくせがある。観客というのは、インデアン遊びをする子供たちと同じで、身がわりになって苦しむことが好きなのだ。インデアンになった子供たちが喜んで射たれ、断末魔の苦しみをやって見せる。あれとまったく同じなのだ、と (中略) わたしに言わせれば、ユーモアとはもう少しちがったものなのである。つまりそれは一見正常に見える行為の中に見出されるきわめて微妙なずれである。別の言葉でいえば、われわれはユーモアを通して、一見合理的なものの中に非合理を見、重要に見えるものの中に取るに足らぬものを見てくる。ユーモアはまた人間の生存意識をたかめ、健全な精神をささえる。

 

そうだ、チャップリンの映画はただ笑うだけではなかった。ぼくらの何かを支えてくれたのである。
数々のドタバタシーンはすべて頭の中にたたき込むようにしてみたが、一方では『独裁者』の中でヒトラーに扮したチャップリンが、一人こっそり、地球儀の風船玉を、お尻や足で蹴りながら踊るシーンがなんとも優雅で好きになった。
だからドタバタ一辺倒にみえるバスター・キートンは、そのころはあまり好きでなかった。表情を殺してしまっている彼の意図・意味がよく分からなかったのだ。
キートンゴダールの作品が納得出来るようになったのは、つい四、五年前になってからである。
『ロッキー』を書いて主演したシルヴェスター・スタローンは、こんなことをいっている。
「僕の考えていたヒーローは、あの放浪児チャップリンの再来だった。観客を沸かせ、泣かせ、最後にちょっと寂しげな後ろ姿を見せるけど、客は彼の行く道に不安を感じることもない。あいつなら大丈夫、きっとうまくやっていけるさ、ってね」
スタローンの言葉がぼくにはよく理解できるのだ。あいつなら大丈夫、きっとうまくやっていける - たしかにチャップリンの姿にはそんな安心感があって、ぼくらを力づけてくれるのだった。