1/2「俳句になぜ季語を詠み込むか - 小澤實」ベスト・エッセイ2006から

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1/2「俳句になぜ季語を詠み込むか - 小澤實」ベスト・エッセイ2006から

短歌は俵万智以降、口語化が進み、現代のことばを用いた現代の詩という傾向を強めている。それに対して、俳句はあいもかわらず文語を捨てようとしない。文語の中の文語である「切字」も、句作における大きな縛りである「季語」もそのまま持ちつづけている。時代錯誤の詩でありつづけようとしている。不思議なことに、現代の俳人は、なぜ「季語」を詠み込むかということをあまり考えようとはしない。かつて、新興俳句な前衛俳句が盛んであったころ、無季俳句が多く作られた、それが有季の俳句に緊張感を与えたということがあった。しかし、前衛対伝統という激しい対立が失われてしまった現在、緊張も失われてしまっている。「俳句は季語を入れるべきものである。季語を入れないものは俳句とは言えない。それがルールである」とだけ考えて思考停止してしまっていることか多いのではないか。
ここであらためて、そのルールがどうして生まれたのか、そして、何ゆえに大切にされてきたのかを考えてみたい。それは「俳句とは何か」「詩とは何か」という問いに近づくことでもある。
まず、「俳句は季語を入れるべきもの」と言い出したのは誰か、ということから考えてみたい。そのためには「俳句」の源を訪ねてみる必要がある。「俳句」ということばから第一に連想するのは子規、虚子といった近代の俳人の句である。
いくたびも雪の深さを尋ねけり 子規
遠山に日の当りたる枯野かな 虚子
近代現代の俳句は子規が祖とされているが、子規がすべてを作りあげたわけではない。彼は江戸時代の蕪村らの「俳諧」から先頭の発句だけを単独で取り出して、「俳句」と呼ぶことにした。だから、それには「俳諧の発句」という原形があった。
古池や蛙飛こむ水の音 芭蕉
牡丹散つてうちかさなりぬ二三片 蕪村
芭蕉、蕪村の俳句とよく言われるが、それは誤用。江戸のころには「俳句」ということばはふつう用いられなかった。「発句」である。俳諧の何句か続けられるその先頭の句であった。それにも原形がある。連歌の発句である。俳諧連歌を漢語、俗語も使えるように変化させたものであった。その元となる連歌という形式が整えられていったのは、鎌倉・室町期。俳句を考える際において、その原形に当る連歌の発句は大切なものである。
八月十五日夜に
たぐひなき名をもち月のこよひかな 良基
仲秋の名月を讃えている連歌の発句。「名を持ち」と「望月」とが掛詞になっている。この単純さは心地よい。この句の作者、良基の連歌論『連理秘抄』(貞和五(一三四九)年)には発句についての記述がある。そこに「又発句に時節の景物そむたるは返々口惜しき事也」ということばが見えている。「時節の景物」とは「その時節のものとして詩歌に詠まれて珍重されてきた自然の風物」である。この後に「正月には余寒 残雪 梅 鶯」などの代表的な季語が季寄せとして並べられている部分がある。これらが「時節の景物」の例となるのである。つまりはその時節の季語を詠み込まないのは残念であると述べている。これがぼくらの俳句は季語を含むべきであるという規範のいわば原典に当るものになろう。すると、現代の俳人は七百年ほども前の約束を守って季語を使っていることになるのだ。
ちなみにこの発句についての部分には「かな・けり、常の事也」などと切字に関しての記述も見られる。発句の切字にはそのようなものが普通用いられるというのだ。切字の使用においてもまた、ぼくらは良基の開いた道の上にいることになる。

それでは、なぜ連歌師は発句に「時節の景物」季語を入れるようにしたのか、という問題に入らなければならない。