2/2「俳句になぜ季語を詠み込むか - 小澤實」ベスト・エッセイ2006から

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2/2「俳句になぜ季語を詠み込むか - 小澤實」ベスト・エッセイ2006から

『連理秘抄』において良基は、連歌の会席にふさわしい時と場所とについて、考えている。「一座と張行せんと思はば、まづ時分を選び、眺望を尋ぬべし」。連歌の会を開こうとしたら、まず、いい時期を選び、いい眺めの場所を探すのがたいせつと書いている。その時期に関しては「雪月の時、花木の砌[みぎり]、時にしたがひて変はる姿を見れば、心の内に動き言葉も外にあらはるる也」と述べられている。雪や月、花が美しい時、刻々と変化していく姿を見れば句作の興も動くというわけだ。
ここで選ばれている「雪月」と「花木」は白楽天の詩句に由来する「殷協律に寄す」という『白氏文集』所蔵の旧友を思う詩の一部「雪月花の時最も君を憶ふ」に拠る。「君」とは、旧友であり、遠くに去ってしまった殷協律のことであった。雪や月や花が美しい時、今は会うことのできない友を懐かしみ詠った白楽天の詩、友と会えない嘆きを風景に託すとともに、美しい景を今、友と共有できたなら、という仮定の幸福をも内包している。『和漢朗詠集』にも引用されたこの詩の中の季節のことばと友愛との関わり方こそが、詩歌の世界に大きな影響を与えているのである。
あしづつのうす雪こほるみがはかな 心敬
たとえば、この連歌の発句は汀の薄雪が凍っていくところを詠んでいる。「あしづつの」は「葦の茎のなかの薄皮」、「うすし」を引き出す枕詞のように用いられる。繊細な雪の景を友人とともに見られた幸福を確かめているのだ。いつの日か会えなくなった際に、この日のことを思い出すだろうということまでも感じさせているようにも思う。連歌は百韻形式がふつうである。参加者の心が友愛で結ばれなければ、一巻百句もの長丁場を巻きおおすことなどできない。連衆のこころをひとつに束ねる役割をももちつつ、季語は必ず発句に詠み込まれるになったのではないか。
芭蕉もこう言う。「雪月花の事のみ云たる句にても挨拶の心也」。『三冊子』に記録さるている。単に季節のことだけを詠んだ詩であっても、友人への挨拶の句になりうるということだ。雪月花だけではない。すべての季語を用いたとに成り立つうるものであるとぼくは思う。たとえば先に引用した「古池や蛙飛こむ水の音」にしても、鳴き声が賞されてきた蛙の飛こむ音を一人聞きとり得たことを誇っているのではなあ、聞きとり得たことを友とともに楽しんでいる、蛙の水音を友との間に置いて微笑んでいると、ぼくは読む。『葛の松原』には其角がこの句の上五に「山吹や」を提案したという話題が記録されている。実際に多くの連衆と共につくった句であったのだ。「俳諧」は孤独な詩ではなかった。

現代のぼくらも日常の挨拶や手紙の書き出しなどにおいて、寒暖を始めとして季節のことに触れる。向き合う相手とこころを通わせようとしたとき、季節のことを持ち出すということは現代の日常生活においても生きている。雪月花のこころは生きているということになるのではないか。連歌俳諧から現代の俳句まで、さまざまに形を変えてきたが、いつでも季語は詩の中にありつづけたのである。
悼 山本健吉先生
雪月花わけても花のえにしこそ  飯田龍太
季節は自然そのものである。「雛祭」「祭」などが人間が主体に見える季語もあるが、これらも、季節が移り変わってその日が来なければはじまらない。詩は人間のわざであるが、季語によってそこに自然の力が、息吹が、吹き込まれるのだ。連歌俳諧の発端である発句は生き生きとした命を持つものでなければならない。そのために籠められている命こそが、季語なのではないか。現代においてもそれは変らない。
少年の見遣るは少女鳥雲に 中村草田男
「少年の見遣るは少女」だけでは単なることばの断片でしかない。そこに、春になって北へ帰る渡り鳥が雲に入るという季語、「鳥雲に」が加わると、内気な少年の少女への思いと、近づいている別れまで感じさせる。まさに句に命を与えるものとして生きているのだ。
俳句における季語には本歌取のはたらきがあるということも言われている。これも短い詩、俳句を生かすものとして重要である。季語を用いるということは、その季語を用いた和歌、連歌俳諧、俳句の作品すべてを引用することだろう。たとえば、今「鳥雲に」の季語を使って俳句を作ったとすると、先の草田男の句をはじめさまざまな作品を引用したことになるというわけだ。句を作るということは、季語を通じて、さまざまな時代の作者と交流を持つことになる。季語の持つ連想の広がりが短い俳句という形式を生かすと言い換えることもできよう。
ぼくなりになぜ俳句に「季語」を詠み込むのか、考えてみた。果たして正しい答に近づいているのであろうか。ぼくにとって季語の魅力と謎は深まるばかりである。