(巻二十七)かため置く雨月の傘の雨雫(長沼紫紅)

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(巻二十七)かため置く雨月の傘の雨雫(長沼紫紅)

 

11月21日土曜日

 

風はつよく木の葉は舞っているが北風ではない。

 

柴又の落ち葉駆け込む荒物屋(清水二三子)

 

散歩:

高校コースを歩き、明日弦楽コンサートがひらかれる富士の湯の前を通ってみた。湯屋は3時半からのようで、その10分前に通ったのだが主に私よりもお年寄りの老人男女たちがすでに開くのを待って屯していた。買い物はなく、パン屋でフランス餡パンを買って帰宅。

本日は三千四百歩で階段は2回でした。

 

読書:

「ふたりで老いる楽しさ - 小田島雄志」ベスト・エッセイ2007

 

を読んでみた。

 

《ひとりで老いるのはさびしいことだろう。そう思う。さいわいぼくは、同年生まれの妻といっしょに老いてきたし、これからももっと老いていくだろう。もちろん今まで、老いゆえにとまどうこともあったし、いらだつこともあった。だが七十代に入ってからは、老いることの楽しさも見いだせるようになった。その例を三つほどあげてみよう。今ひとりで老いようとしている人に、再婚のつれあい、学生時代の親友、いや、茶飲み友だちでもいい、同じ時代に貧しさに耐えたり恋愛映画に感動したりした思い出を共有する同年輩の話し相手を身近にもつよう、すすめたいからである。》

と、まあ、そんなことが書いてあるわけで、女性の考え方とは多分ちがうだろう。

春深し妻と愁ひを異にして(安住敦)

女性の考え方を一生懸命に推し測ったのが別役実氏で、我が妻の言動の中にもこの願望が読み取れる。

 

「後家 - 別役実ちくま文庫 思いちがい辞典 から

 

後家というのは、一種の社会的な身分のことである。そして、あからさまにそうは言われていないものの、当の女性にとっては、かなり理想的な身分と考えられている。女性にはすべて、「結婚願望」というものが潜在していると言われているが、実はそれ以前に「後家願望」があることが、今日社会学者の調査によって明らかになりつつある。つまり、彼女たちの「結婚願望」は本来「後家願望」なのであり、ものの道理として「結婚」しなければ「後家」になれないから、それがたまたま「結婚願望」として表明されているにすぎないのだ。

従っておおむねの女性は、早いものでは結婚した翌日から、「いつ後家になれるかしら」と考えはじめる。もっと人生に対して積極的で、計画的な女性は、「いつ後家になろうかしら」と考えはじめる、とまで言われているのだ。それほど、「後家はいい」のである。ただし、時々酒場の片隅などで、決して紳士とは言えないような中年男性が、「後家はいいよ」と言っているのを聞くことがあるが、これは意味が違う。この場合は、それら中年男性の性的対象として「後家は味わい深い」ということを言っているのであって、当の「後家」にとっての身分のことを言っているのではないからである。そして、当の「後家」にとっての「後家はいい」という意味など、中年男性には想像もつかない。つまり、それほど「いい」のだ。

もちろん、これまで多くの中年男性が、当の「後家」にとっての「後家はいい」という真の意味を解明すべく、手をつくしてきた。しかし、これだけはどうしようもない。「後家はいい」という真の意味は、当の「後家」にしかわからないのであり、男は、どうあがいても「後家」にはなれないからである。「男やもめ」というのがあるにはあるものの、これはまた、社会的身分としてはこれ以上はないというほど絶望的なものなのだ。「まだ死んでいない」というだけのものにほかならない。

実は、「後家」の別称「未亡人」は、文字通り「まだ死んでいないもの」の意であり、「男やもめ」たちが「後家」もそうであろうと想像して名付けたものであるが、彼女たちが唯々諾々としてその蔑称を受け入れた時、男としては気付いていなければならなかった。もし、「後家」の身分がその蔑称にふさわしいみじめなものだったら、彼女たちは「ムッ」としてそれをはねつけたに違いないからである。つまり彼女たちは、「名を捨てて実を取った」のだ。そして、男どもにはそう思わせておけ、と考えたのだ。

これから考えても、「後家」というものがかなり「いい」ものであることがよくわかる。しかも、「後家はいい」ということは、生物学的にも確かめられているのである。人類の場合、女性の方が寿命が長いということが、あらゆる環境において確かめられており、長いこと生物学的な謎とされてきたのであるが、この「後家はいい」事実と、それによって促された女性たちの「後家にならずにおくものか」という固い決意が、男性の寿命を超えるのであり、一方男性の「男やもめになりたくないな」というたじろぎが、女性に負けるのである。

というわけで、ここへきてすべての男性が、「後家はいい」らしいことを気付かされつつあり、その事実を、いやおうなく認めさせられつつある。それはいい。男性というものは概して寛容な生きものであるから、「そんなにいい」なら「先に死んでやってもいいよ」とすら考えているのだ。しかし、「どんな風にいいのか」という、その点だけは知りたい。それを知らないでは、「死んでも死にきれない」のである。そこで或る男性が、或る「後家」に、「どんな風にいいんだい」と聞いてみた。するとその「後家」は、ニタリと笑って、「フン」とうそぶいた。恐らく、そんな風に「いい」のだろう。

 

願い事-叶えてください。手間をかけずに、君に愉しい後家の日々を贈りたいと願っていますよ。男やもめにはなりたくない。

問はれれば不便と答ふ秋の暮(山本裕)

は避けたい。

明日はいい夫婦の日だ。