1/4「水・渡船 - 永井荷風」岩波文庫 荷風随筆集(上)

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1/4「水・渡船 - 永井荷風岩波文庫 荷風随筆集(上)

仏蘭西人エミル・マンユの著書『都市美論』の興味ある事は既にわが随筆『大窪だより』の中に述べて置いた。エミル・マンユは都市に対する水の美を論ずる一章において、広く世界各国の都市とその河流及び江湾の審美的関係より、更に進んで運河沼沢[しようたく]噴水橋梁等の細節にわたってこれを説き、なおその足らざる処を補わんがために水流に映ずる市街燈火の美を論じている。
今試[こころみ]に東京の市街と水との審美的関係を考うるに、水は江戸時代より継続して今日においても東京の美観を保つ最も貴重なる要素となっている。陸路運輸の便を欠いていた江戸時代にあっては、天然の河流たる隅田川とこれに通ずる幾筋の運河とは、いうまでもなく江戸商業の生命であったが、それと共に都会の住民に対しては春秋四季の娯楽を与え、時に不朽の価値ある詩歌絵画をつくらしめた。しかるに東京の今日市内の水流は単に運輸のためのみとなり、全く伝来の審美的価値を失うに至った。隅田川はいうに及ばず神田のお茶の水本所の堅川[たてかわ]を始め市中の水流は、最早や現代のわれわれには昔の人が船宿の桟橋から猪牙船[ちよきぶね]に乗って山谷[さんや]に通い柳島に遊び深川に戯れたような風流を許さず、また釣や網ね娯楽をも与えなくなった。今日の隅田川は巴里[パリ]におけるセーヌ河の如き美麗なる感情を催さしめず、また紐育[ニユーヨーク]のホドソン、倫敦[ロンドン]のテエムスに対するが如く偉大なる富国の壮観をも想像させない。東京市の河流はその江湾なる品川の入海[いりうみ]と共に、さして美しくもなく大きくもなくまたさほどに繁華でもなく、誠に何方[どつち]つかずの極めてつまらない景色をなすに過ぎない。しかしそれにもかかわらず東京市中の散歩において、今日なお比較的興味あるものはやはり水流れ船動き橋かかる処の景色である。
東京の水を論ずるに当ってまずこれを区別して見るに、第一は品川の海湾、第二は隅田川中川六郷川の如き天然の河流、第三は小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川の如き細流[さいりゅう]、第四は本所深川日本橋京橋下谷浅草等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の桜川、根津の藍染川、麻布の古川、下谷の忍川の如きその名のみ美しき溝渠[こうきよ]、もしくは下水、第六は江戸城を取巻く幾重の濠、第七は不忍池角筈十二社の如き池である。井戸は江戸時代にあっては三宅坂側の桜ケ井、清水谷の柳の井、湯島の天神の御福の井の如き、古来江戸名所の中[うち]に数えられたものが多かったが、東京になってから全く世人に忘れられ所在の地さえ大抵は不明となった。

東京はかくの如く海と河と堀と溝と、仔細にに観察し来ればそれら幾種類の水 - 即ち流れ動く水と淀
んで動かぬ死したる水とを有する頗[すこぶる]変化に富んだ都会である。まず品川の入海[いりうみ]を眺めんにここは目下なお築港の大工事であれば、将来如何なる光景を呈し来[きた]るや今より予想する事はできない。今日までわれわれが年久しく見馴れて来た品川の海は僅に房州通[ぼうしゆうがよい]の蒸気船と円[まる]ッこい達磨船[だるません]を曳動[ひきうごか]す曳船の往来する外、東京なる大都会の繁栄とは直接にさしたる関係もない泥海である。潮の引く時泥土[でいど]は目のとどく限り引続いて、岸近くには古下駄に炭俵、さては皿小鉢や椀のかけらに船虫[ふなむし]のうようよと這寄るばかり。この汚い溝[どぶ]のような沼地を掘返しながら折々は沙蚕[ごかい]取りが手桶を下げて沙蚕を取っている事がある。遠くの沖には彼方[かなた]此方[こなた]に澪[みお]や粗朶[そだ]が突立っているが、これさえ岸より眺むれば塵芥[ちりあくた]かと思われ、その間にうかぶ牡蠣舟や苔取[のりとり]の小舟も今は唯強いて江戸の昔を追回[ついかい]しようとする人の眼にのみ聊[いささ]かの風趣を覚えさせるばかりである。かく現代の首府に対しては実用にも装飾にも何にもならぬこの無用なる品川湾の眺望は、彼の八[や]ッ山の沖に並んでうかぶこれも無用なる御台場と相俟[あいま]って、いかにも過去った時代の遺物らしく放棄された悲しい趣を示している。天気のよい時白帆や浮雲と共に望み得られる安房上総の山影[さんえい]とても、最早や今日の都会人には彼の花川戸助六が台詞にも読込まれているような爽快な心持を起させはしない。品川湾の眺望に対する興味は時勢と共に全く湮滅[いんめつ]してしまったにかかわらず、その代りとして興るべき新しい風景に対する興味は今日においてはいまだ成立たずにいるのである。
芝浦の月見も高輪のニ十六夜待[にじゆうろくやまち]も既になき世の語草[かたりぐさ]である。南品[なんぴん]の風流を伝えた楼台[ろうだい]も今は唯不潔なる娼家[しようか]に過ぎぬ。明治二十七、八年頃江見水蔭子[えみすいいんし]がこの地の娼婦を材料として描いた小説『泥水清水[どろみずしみず]』の一篇は当時硯友社[けんゆうしや]の文壇に傑作として批評されたものであったが、今よりして回想すれば、これすら既に遠い世のさまを描いた物語のような気がしてならぬ。
かく品川の景色の見捨てられてしまったのに反して、荷船の帆柱と工場の煙筒の叢[むらが]り立った大川口[おおかわぐち]の光景は、折々西洋の漫画に見るような一種の趣味に照して、この後とも案外長く或一派の詩人を悦[よろこ]ばす事が出来るかも知れぬ。木下杢太郎北原白秋諸家の或時期の詩篇には築地の旧居留地から月島永代橋あたりの生活及びその風景によって感興を発したらしく思われるものがすくなかった。全く石川島の工場を後[うしろ]にして幾艘となく帆柱を連ねて碇泊するさまざまな日本風の荷船や西洋形の帆前船[ほまえせん]を見ればおのずと特種の詩情が催される。私は永代橋を渡る時活動するこの河口[わかぐち]の光景に接するやドオデエがセエン河を往復する荷船の生活を描いた可憐なる彼[か]の『ラ・ニベルネイズ』の一小篇を思出すのである。今日の永代橋には最早や辰巳の昔を回想せしむべき何物もない。さるが故に、私は永代橋の鉄橋をばかえってかの吾妻橋や両国橋の如くに醜くいとは思わない。新しい鉄の橋はよく新しい河口[かこう]の風景に一致している。