2/4「水・渡船 - 永井荷風」岩波文庫 荷風随筆集(上)

f:id:nprtheeconomistworld:20201125084647j:plain

 

2/4「水・渡船 - 永井荷風岩波文庫 荷風随筆集(上)

私が十五、六歳の頃であった。永代橋の河下[かわしも]には旧幕府の軍艦が一艘商船学校の練習船として立腐れのままに繋がれていた時分、同級の中学生といつものように浅草橋の船宿から小舟を借りてこの辺を漕ぎ廻り、河中に碇泊している帆前船を見物して、こわい顔をした船長から椰子の実を沢山貰って帰ったことがある。その折私たちは船長がこの小さな帆前船を操って遠く南洋まで航海するのだという話を聞き、全くロビンソンの冒険談を読むような感に打たれ、将来自分たちもどうにかしてあのような勇猛なる航海者になりたいと思ったことがあった。
やはりその時分の話である。築地の河岸の船宿から四梃艪[よんちようろ]のボオトを借りて遠く千住の方まで漕ぎ上った帰り引汐につれて佃島の手前まで下って来た時、突然向から帆を上げて進んで来る大きな高瀬船に衝突し、幸いに一人も怪我はしなかったけれど、借りたボオトの小舷[こべり]をば散々に破[こわ]してしまった上に櫂を一本折ってしまった。一同は皆親がかりのものばかり、船遊びをする事も家へは秘密にしていた位なので、私たちは船宿へ帰って万一破損の弁償金を請求されたらどうしようかとその善後策を講ずるために、佃島の砂の上にボオトを引上げ浸水をかい出しながら相談をした。その結果夜暗くなってから船宿の桟橋に船を着け、宿の亭主が舷[ふなべり]の大破損に気のつかない中[うち]一同一目散に逃げ出すがよかろうという事になった。一同はお浜御殿の石垣下まで漕入ってから空腹を我慢しつつ水の上の暗くなるのを待ち船宿の桟橋へ上るが否や、店に預けて置いた手荷物を奪うように引掴み、めいめい後をも見ず、ひた走りに銀座の大通りまで走って、漸[やつ]と息をついた事があった。その頃には東京府立の中学校が築地にあったのでその辺の船宿では釣船の外にボオトをも貸したのである。今日築地の河岸を散歩しても私ははっきりとその船宿の何処[いずこ]にあったかを確めることが出来ない。わずか二十年前[ぜん]なる我が少年時代の記憶の跡すら既にかくの如くである。東京市街の急激なる変化はむしろ驚くの外はない。


大川筋一帯の風景について、その最も興味ある部分は今述べたように永代橋河口の眺望を第一とする。吾妻橋両国橋等の眺望は今日の処あまりに不整頓にして永代橋におけるが如く感興を一所に集注する事が出来ない。これを例するに浅野セメント会社の工場と新大橋の向に残る古い火見櫓の如き、あるいは浅草蔵前の電燈会社と駒形堂の如き、国技館と回向院の如き、あるいは橋場の瓦斯タンクと真崎稲荷[まつさきいなり]の老樹の如き、それら工業的近世の光景と江戸名所の悲しき遺磧とは、いずれも個々別々に私の感想を錯乱させるばかりである。されば私はかくの如く過去と現在、即ち廃頽と進歩との現象のあまりに甚しく混雑している今日の大川筋よりも、深川小名木川より猿江裏の如くあたりは全く工場地に変形し江戸名所の名残も容易[たやす]くは尋ねられぬほどになった処を選ぶ。大川筋は千住より両国に至るまで今日においてはまだまだ工業の侵略が緩慢に過ぎている。本所小梅から押上辺[へん]にいたる辺[あたり]りも同じ事、新しい工場町としてこれを眺めようとする時、今となってはかえって柳島の妙見堂と料理屋の橋本とが目ざわりである。

 

運河の眺望は深川の小名木川辺に限らず、いずこにおいても隅田川の両岸に対するよりも一体にまとまった感興を起させる。一例を挙ぐれば中洲と箱崎町の出端[でばな]との間に深く突入[つきい]っている堀割はこれを箱崎町の永久橋[えいきゆうばし]または菖蒲河岸の女橋[おんなばし]から眺めやるに水はあたかも入江の如く無数の荷船は部落の観をなし薄暮風収まる時競[きそ]って炊烟[すいえん]を棚曳[たなび]かすさま正に江南沢国[こうなんたくこく]の趣をなす。凡[すべ]て溝渠[こうきよ]運河の眺望の最も変化に富みかつ活気を帯びる処は、この中洲の水のように彼方此方から幾筋の細い流れがやや広い堀割を中心にして一個所に落合って来る処、もしくは深川の扇橋の如く、長い堀割が互に交叉して十字形をなす処である。本所柳原の新辻橋、京橋八丁堀の白魚橋、霊岸島の霊岸橋あたりの眺望は堀割の水のあるいは分れあるいは合[がつ]する処、橋は橋に接し、流れは流れと相激[あいげき]し、ややともすれば船は船に突き当ろうとしている。私はかかる風景の中[うち]日本橋を背にして江戸橋の上より菱形をなした広い水の片側には荒布橋[あらめばし]つづいて思案橋、片側には鎧橋[よろいばし]を見る眺望をば、その沿岸の商家倉庫及び街上橋頭[きようとう]の繁華雑踏と合せて、東京市内の堀割の中[うち]にて最も偉大なる壮観を呈する処となす。殊に歳暮の夜景の如き橋上[きようじよう]を往来する車の灯[ひ]は沿岸の燈火と相乱れて徹宵[てつしよう]水の上に揺[ゆらめ]き動く有様銀座街頭の燈火より遥に美麗である。
堀割の河岸には処々[しよしよ]物揚場[ものあげば]がある。市中の生活に興味を持つものには物揚場の光景もまたしばし杖を留むるに足りる。夏の炎天神田の鎌倉河岸、牛込揚場の河岸などを通れば、荷車の馬は馬方と共につかれて、河添[かわぞい]の大きな柳の木の下に居眠りをしている。砂利や瓦や川土[かわつち]を積み上げた物蔭にはきまって牛飯[ぎゆうめし]やすいとんの露店が出ている。時には氷屋も荷を卸している。荷車の後押しをする車力[しゃりき]の女房は男と同じよいな身仕度をして立ち働き、その赤児[あかご]をば捨児[すてご]のように砂の上に投げ出していると、その辺には痩せた鶏が落ちこぼれた餌をあさりつくして、馬の尻から馬糞の落ちるのを待っている。私はこれらの光景に接すると、必[かならず]北斎あるいはミレエを連想して深刻なる絵画的写実の感興に誘[いざな]い出され、自ら絵事[かいじ]の心得なき事を悲しむのである。