「趣味 - 室井滋」福武文庫 ブキミな人びと から

 

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「趣味 - 室井滋」福武文庫 ブキミな人びと から

私は大のタクシー好きです。
お金が無く、仕方なしに駅を目指してトボトボ歩いている時でも、目尻でタクシーを発見してしまうや否や、ついつい路上にかけ出し、映画『グロリア』のG・ローランズ張りに、高々と右手をあげ「よっ、タクシー!」と、叫んでしまっているのです。
これでは日々のタクシー料金だけでも馬鹿にならないのでいっそならと思い免許を取って、車も買ってみたのですが、何故か一向にタクシーに乗る機会は減りません。あの赤い空車ランプを見てしまうと「もったいない!」という気持ちが働き、どうしても遣り過ごすことが出来ず、反射的に手が行ってしまうんですねぇ。「何がもったいないだ!?」と、自分でもすぐに我に返るのですが、日頃の癖というもの、そう簡単には治らないもののようです。
また、しかし、こんなに回数をこなしていると、なかなか面白いキャラクターの運転手さんに出くわしてしまうことも多くて、それがまた、タクシーをやめられない理由の一つでもある訳です。
これは、三年前の秋、私が池袋の東口に向けて個人タクシーに乗ったときのこと。
とてもきりっとした感じの、五十過ぎぐらいの運転手のおじさんが、目白通りにさしかかったあたりで、
「お客さん、この辺って、目白のお不動さんがあるところですよねぇ」
と、話しかけてきました。私は何のことかとただ軽く、「はあ」と受け流していると、「目白不動目黒不動、赤不動、青不動......いやいや、なつかしい。お不動様もよく撮ったなぁ」
と、なにやらしみじみしながら、
「私ねぇ、写真好きで、『毎日グラフ』なんかにも載ったこと、あるんですよ。ハハハ」
と、嬉しそうに写真の話を始めました。
「私は、何か一つのものに興味を持つと、それに集中的に目が行ってしまうんです。お不動様を撮りたいと思うとするでしょう、すると寝てもさめてもお不動様だ。自分で、もう良し!と思えるまで撮らないと気が住まないんですよ。そう、お不動の次は伊豆だったなァ-......」
「そう、伊豆半島です。伊豆の地図を持って自分で歩いて、しらみつぶしに撮った場所を、少しずつ赤エンピツでぬりつぶしてゆくんです。伊豆半島全土が真っ赤になるのに一年半かかったけれど、それでも赤く埋った地図を見て、自分はついに伊豆を制覇したんだと、胸が一杯になったもんですよ。ハハハ、お客さん、伊豆のことなら何でも聞いてください、ハハハハハ。そしてその次は......そうだ手、でしたねぇ」
「手って、人の、......この手ですか?」と私。
「そう、人間の手というものは実に面白い。体のどの部分より動きがあって、表情豊かです。さらに、その表情を生かしてくれるバックの風景とのコンビネーションが、また見ものです。不思議とその手にピタッとくる場所、手がことさら美しく見える場所というものがあるものなんです。
私は、素晴らしい手に出会うと、夢中でシャッターを押し続けました。手は正直ですからねぇ、じ-っと見つめていると、ちっともあきなかったなぁ。
いやいや長いといえばお客さん、実は私にはもっと長く撮り続けたものがあるんです。へへへ、何だと思います。それは、私の娘ですよ。娘が生まれたその日から、私は毎日一枚、必ず娘を撮り続けてきました。同じ場所に坐らせて、一年三百六十五日、一日もかかさずに。お陰様で娘はとても素直ないい子に育ってくれて、写真を撮るのも一度も嫌がったことはありませんでした。
ところがです。娘が十八になる誕生日ぬ、お父さん、私を撮るのは今日を最後にして欲しい、って言われたんです。その時の私のショックと言ったら......」
急に言葉を詰まらせた運転手さんに、私は、
「まあまあ、お嬢さんもあと少し、お嫁に行くまで親孝行なされば良かったのにねぇ」
と、せめてもの慰めを言って、車を降りようとしました。すると、その時ふり返った運転手さんは、目をうるませて私にこう言いました。
「お客さん、やっぱり娘も年頃、好きな男もいるみたいだし、いくら父親とはいっても、毎日毎日裸になり続けるっていうのは、嫌なものだったんでしょうかねぇ。お客さんが娘だったら、どうしますか、やっぱり裸は嫌!?」