1/2「百寺の旅 千所の旅 - 五木寛之」ベスト・エッセイ2006から

 

 

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1/2「百寺の旅 千所の旅 - 五木寛之」ベスト・エッセイ2006から

七十歳の春から、百の寺をまわり歩く旅をはじめた。ひと月に四寺から五寺を訪れて、いまようやく九十寺に達しようというところである。
仕事がらみの旅ではあるが、それだけではない。かなり以前から漠然と考えていたことが、いくつもの偶然がかさなって思いがけず実現したのだ。
この年になって感じるのだが、世の中のことというのはそういうものである。必死になってがんばっても、できないものはできない。うまくいくときは、あれよあれよという間に話がまとまってしまう。
二年間で百寺をまわることになって、最初はやはり不安だった。毎月、四寺から五寺というのは、かなりハードな日程である。体力も必要だが、なにより根気がつづくかどうかが問題だろう。
好きやすの飽きやす、というのが九州人の特徴で、私もその例にもれない。弥次馬根性だけは人一倍つよいのだが、粘りにかける性格だ。いったん始めたら、途中でほうりだすわけにはいかない旅である。
あれこれ迷っているうちに、たちまち出発の日がきた。最初に訪れたのは、春なお浅き大和山中の室生寺である。
女人高野として人気の高いこの寺は、いささか辺鄙な場所にある。しかも寒い。快適なホテルなど期待するほうが無理だ。
おっかなびっくり出かけた室生寺だが、この皮切りの寺の印象がすこぶるよかった。
泊った橋本屋旅館のおかみさんは、若いころ室生寺小町とうたわれた人だという。写真家の土門拳さんがしょっちゅう逗留した宿らしいが、惹かれたのは仏像だけだろうか。
いや、仏さんもなかなか魅力的だった。土門さんは室生寺の釈迦如来像を日本一の美男と評したそうだが、私はこの寺の聖観音[しようかんのん]さんに一目で夢中になった。内陣の奥の、暗い場所に置かれていて、ふだんはあまりよく見えない立像[りゆうぞう]である。カメラのライトのせいで、はじめて気づかされたくらいだ。
この寺の石段はすごかった。奥の院まで往復約千四百段、かぞえかたによっては何段か誤差がでるかもしれない。カーブしている場所などに、微妙な段差があるからである。
室生寺の石段を体験してしまうと、あとはどこの山寺を訪れても驚くことはない。
「岩にしみいる蝉の声」で有名な山寺立石寺[りつしやくじ]の、千余段をのぼったときも、ぜんぜん平気だった。
最初の寺をクリアしてしまえば、ふんぎりもつく。こうなった以上は、何がなんでも百寺を回ろうと覚悟がさだまる。はじめはおずおずと、後には脱兎のごとく、各地の寺々を歴訪して、あと十寺あまりで満願というところまで、やっとたどりついたところだ。
いまふり返って思うのは「人生いろいろ、寺もいろいろ」ということである。じつに不思議な寺があり、じつに驚くべき寺がある。
日本列島を占領したかにみえるコンビニの数、およそ四万という。しかし、宗教法人としてちゃんと運営されている寺は、はるかにそれを上まわる。現存する寺、約七万四千寺ときいて驚くのは、私だけではあるまい。

七万四千寺以上の寺が、廃寺にならずに生きているということはどういうことか。だれかがその寺を物心両面で支えているからこそ、成り立っているのだ。そう考えてみると、無宗教民族とも見られる日本人のイメージが少し変ってくる。意外にも私たちは、決して寺に無関心ではないらしい。
この国には年間一千万人以上の参拝者を集める寺がいくつもある。浅草浅草寺を筆頭に、長野の善光寺成田山新勝寺、そのほかにもまだまだあるだろう。
参拝者というより観光客じゃないのか、と、からかう声もきこえそうだが、私は両者を区別しない主義だ。物見遊山であれなんであれ、ディズニーランドへいくのと寺を訪れるのとは、あきらかにちがうものがあるような気がする。「縁なき衆生[しゆうじよう]を済度[さいど]する」というのが仏教の根本の精神だから、観光のつもりで寺へきて、万が一にもなにか感じるところがあれば仏さんも大いによろこばれるのではあるまいか。
などと偉そうなことを書いている私自身も、これまではほとんど「縁なき衆生」のひとりだった。若いころ九州から上京して以来、浅草の観音さまには何度となく出かけている。いまはなき国際劇場で、SKDの踊り子さんのラジオ番組を構成していたころなど、境内を通り抜けの道として気軽に使っていたものだ。
「で、浅草寺はいったい何宗の寺なんだい」
と、あるとききかれて立往生したものだった。浅草の観音さま、と気楽に呼んできたものの、正式の宗派となるといささか困る。
「たしか金龍山浅草寺といったと思うけど」
「それはわかっている。どこの宗派の寺かときいてるんだ」
「うーむ」
絶句したのが口惜しくて、いろんな人に同じことをたずねてみると、意外なほど答えられない相手が多い。下町通を自称する編集者にきいてみても、けげんそうな顔をするだけだった。
浅草寺にそんなものあったっけ」
などと、ひどいことを言う相手もいる。たしかに無宗派を名乗る寺は、ないわけではない。長野の善光寺が、無宗派の寺であることはよく知られている。
じつは私も知らなかったのだが、現在、浅草寺聖観音宗[しようかんのんしゆう]の寺である。天台の流れをくむ一派だが、浅草寺の始まりが奈良の東大寺よりも、比叡山延暦寺よりも古いと知ったときは、やはり驚いた。