2/2「百寺の旅 千所の旅 - 五木寛之」ベスト・エッセイ2006から

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2/2「百寺の旅 千所の旅 - 五木寛之」ベスト・エッセイ2006から

寺伝、というのは、おおむね後世につくられた物語りのようなもので、かならずしも歴史ではない。歴史ではないが、まったくのフィクションでもない。物語りに化構された真実というものが、随所に見え隠れするところがミソである。伝わるところによると、浅草寺は、漁師が隅田川から拾いあげた観音像をまつった堂宇[どうう]から始まる。西暦六八二年というから、これは古い。奈良の東大寺が七四五年の創建というと、それより百年以上も古い寺が浅草寺ということになる。
これまで私の頭のなかでは、江戸以前のこの土地のすがたが、ほとんどイメージされることがなかった。前[プレ]・江戸[エド]という感覚が皆無だったのだ。
一千年の古都といわれる京都よりはるか以前に、関東の一角にどんな寺があり、どんな町があり、どんな人びとの暮しがあったのだろうか。

話は飛ぶが、古都といえば、金沢なども小京都を自称している。金沢では、先年、建都四百年を記念する行事が催されたはずだが、この四百年という区切りかたが気になってしかたがなかった。
金沢の起源は、十六世紀に尾山御坊と呼ばれた浄土真宗の寺が誕生したことに始まる。
金沢御堂ともいわれたその寺を中心に、寺内町[じないまち]が形成され、しだいに発展していく。やがて約百年におよぶ一向衆の共和国が倒されたあと、江戸時代は加賀藩として前田家百万石の城下町に発展していくこととなる。前[プレ]・加賀藩のおよそ百年を加えると、金沢は五百年の古都といっていいだろう。
一向一揆の百年を街の歴史に入れたくないという心情が、どこかにはたらいているのだろうか。先日、みぞれの降るなかを金沢城址の旧御坊のあとを歩いて、いろんなことを感じたものだった。
百寺を回る旅とはべつに、「千所千泊」という以前からの計画もなんとなく続いている。

若いころは外国へ旅行するのが特技だった。ロシアや、北欧や、イベリア半島などを舞台にした小説を、たくさん書いたものである。
しかし、あるとき突然、おれは自分の母国を知らない、と痛感した。日本のことをろくに知りもしないで、外国の話などしていることが急に恥ずかしくなってきたのだ。
菅江真澄や、鈴木牧之や、宮本常一や、坂口安吾などの書いたものを読んで、よし、と思う。早速、「千所千泊」という計画を立て、みんなに言いふらした。十年のうちに知らない町や村など、千ヵ所を回ってみようと思う、と宣言したのだ。
いちどでも訪れた場所はカウントしない。はじめて足を踏み入れた所だけを一ヵ所と数える。寝室のベッドの枕の上に日本地図を張った。どこか一ヵ所訪れるたびごとにマチ針を一本さすことにした。
それから十数年たったが、まだ一千ヵ所には達していない。枕元の日本地図は針の頭でまっ赤である。それでもようやく七百九十五本の針を立て終えたところだ。
はたから見ると酔狂な道楽にしか思えないだろう。千ヵ所の土地を訪ねて、それでどうした、と言われてもしかたがない。
しかし、ほんの少しずつではあるが、この日本という国のすがたや、日本人の暮しぶりがぼんやり見えてきたような気がする。これまで漠然と考えていたものが、なんとなく手で触るように確かめられてきたような感じもあるのだ。
百寺のほうは順調にいけば、あと二カ月あまりで巡礼を終えることになるだろう。千所のほうも、七十五歳ぐらいまでにはどうやらクリアできそうだ。
しかし、一寸先は闇。
山陰の三佛寺の投入[なげいれ]堂に登ったときは、馬の背であやうく足を滑らせそうになった。先ごろ関西の女の人が落ちて亡くなった場所である。
中尊寺へいったときは、腰痛がでて往生した。
そうでなくても原稿の締め切りを抱えての旅暮しは、やはり楽ではなあ。最近は深夜のコンビニで買うおにぎりに関しても、すっかり通になってしまった。
それにしても日本は広い。歩いても歩いても底が知れない不思議な国である。この旅の終りに待っているのは、たぶん、浄土という、さらに遠く広い世界なのだろう。