「やまのて線 - 柳井乃武夫」文春文庫 巻頭随筆1から

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「やまのて線 - 柳井乃武夫」文春文庫 巻頭随筆1から

麹町六丁目に心法寺というお寺がある。その玄関前の植込みの中に鐘がひっそりと置かれている。戦争中、供出のため鐘楼からおろしたところで戦災に遭い、いくらか火はかぶったがそのまま終戦を迎えたのだそうだ。延宝七年(一六七九年)のその鐘銘には「武州豊島郡......山野手」の字が見える。延宝といえば四代将軍家綱の頃だから、下町に対する山の手という言葉は、古く江戸時代から使われてきたことはたしかだ。
東京の山の手を通って赤羽・新宿・渋谷・品川を結ぶ鉄道が明治十八年に日本鉄道によって敷設された。これは当初品川線と呼ばれたが、日本鉄道の定款によると、明治三十四年に改称し、「山手線 第一区中赤羽ヨリ分岐シ東京府下品川ニ至ル鉄道」となった。明治三十六年発行の吉田東伍著『大日本地名辞典』の赤羽の項を見ると、「停車場あり、東北鉄道幹線上野より此に至り(六哩[マイル])府西を迂回する山手[ヤマノテ]線(品川に至るもの)と相会し、東海道幹線に連絡を成す、品川に至る十二哩、近衛師団東京師団の工兵兵営も在り」とあって、山手線にはわざわざヤマノテ線とルビを振っている。
日本最初の私鉄、日本鉄道は華士族の金祿公債を資本に設立され、建設は工部省に委託した会社だったから、実体は政府と同じだったのだろう。幕府に対する好意の強かった東北地方に、第二の西南戦争を起こさせないようにとの政治的配慮があったのかどうかは知らないが、機械のない時代なのに驚くべきスピードで工事を進め、五年で仙台、十年で青森まで開通させた。
同じ私鉄でも甲武鉄道は地名の発音に忠実に駅名をつけた。御茶ノ水、市ヶ谷、四ツ谷千駄ヶ谷と、ノやケやツをつけている。これに対して日本鉄道の沿線の駅名を見ると、秋葉原鴻巣[こうのす]、熊谷、雀宮[すずめのみや]、宇都宮、槻木[つきのき]、一戸、三戸、八戸と漢字の連続で、ノもケもつけない官鉄流だ、だから山手線にもノはつかなかった。
日露戦争の結果、明治三十九年に鉄道国有法ができ、日本鉄道、甲武鉄道山陽鉄道、九州鉄道等全国十七の幹線私鉄の買収が進められた。その結果、明治四十一年には鉄道院が設置され、翌四十二年に鉄道院総裁男爵後藤新平の名によって、「国有鉄道線路名称」なるものが告示された。

これは国有化した全国の線路を十四の本線と四十四の支線にわけて一括公示したもので、いわば線路の戸籍簿のようなものだ。これは昭和二十四年の公社発足に際して日本国有鉄道公示で受け継がれ、線路の数も現実では本線三十二、支線ニ百十六とふえたものの、駅名の場合とちがって、どうしたわけか、線名には明治以来ふりがなをつけないのが伝統とされてきた。
ところが、線名には胆振[いぶり]線、左沢[あてらざわ]線、太多[たいた]線、仙石[せんせき]線、宮原[みやのはる]線、角館[かくのだて]線等難読のものが多い。そこでこの三月に吾妻[あがつま]線が開業するのを機に、元帳に手を入れて、全国ニ百四十八の線名にふりがなをつけ、時刻表にも三月号から掲載することにした。
ふりがなをつけるためには正確でなければいくないす、統一の問題もでてくる。山手線の場合は、通過するのが東京の山の手であって、横浜の山手ではないのだから、やまのてとカナをふった。山の手は江戸開府以来の名前と考えられ、戦前は山の手線電車として文学書にも登場した。ノを補って発音するのは、下関、尾道来宮[きのみや]等七十一駅、湯前線石巻線等六線区もある。「山内[やまのうち]さん」や「枕草子[まくらのそうし]」の場合のようなものだ。
大正八年に中野・新宿・四ツ谷・東京・品川・渋谷・新宿・池袋・上野と、ひらがなの「の」の字を画いて、電車の「の」の字運転がはじまった。大正十四年には上野と神田間の電車線路が開通したので環状運転が実現した。この頃から電車の前頭に行先を示す方向板が掲げられるようになった。山手線の場合は縦に山手線と書き、それを円でかこった図案のもので、それが終戦まで続いた。
終戦後にわかに方向板にローマ字を入れることになり、縦書きの山手線の線の字をつぶして、その部分に横書きで英語を書いた。その時に部分略称のヤマテを使ったため、ローマ字の方向板がもとで、本籍とは関係なくヤマテの呼び名を普及させる結果となった。
私は七年間毎日やまのて線で学校に通ったが、息子はヤマテ線で通学して育った。その大学生をつかまえて山手線物語を聞かせたら、ひとことポツンと答えた。
「そういえば浅野タクミカミとはいわないな」