「『行基式目』とアーネスト・サトウ - 林望」文春文庫 巻頭随筆6 から

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「『行基式目』とアーネスト・サトウ - 林望」文春文庫 巻頭随筆6 から

行基式目』というちっぽけな本がある。いったいこの書名を、日本中でどれほどの人が知っていることだろう。たかだか二、三ページほどの薄っぺらい小冊子で、伝本も幾らも残っていないらしく思われる。この本の内容は、聖武天皇行基に詔して定めさせたと伝える一種の簡単な仏教的法律書なのであるが、無論、信ずるに足りない、偽撰の書である。幕末から明治にかけて、大活躍した英国の外交官アーネスト・サトウが、どんな経緯でこの本について知るようになったのか、私には今知るところがない。が、ともかく、彼はこの本のことを人づてに聞いて知っていた。おそらく日本の仏教と法制史に対する興味からであろう、サトウはこの本を捜し求めて、何とか読んでみたいと思ったらしい。
今と違って、図書館や参考書の完備していない不自由な時代のことである。めあての本を捜すには、古本屋の店先ではじから見て行くにまさる方法はなかった。御一新で、江戸時代以前の所謂「和本」は、二束三文で至る所の本屋の店頭に溢れていた。サトウはちょうどこういう時世に遭って、次第に日本の書物に興味を持ち、夥[おびただ]しい和本を、しかも体系的に買い求めて、ついには文学、歴史、宗教、哲学等々日本の学芸百般にわたる壮大なコレクションを作り上げた。彼が『行基式目』に遭遇したのは、こうした過程においてであったに違いない。
ともあれ、彼は、芝西久保にあった、とある書店に立寄って、この本を永らく捜し求めていることを主人に嘆いたものであるらしい。しかし、この店のあるじも、『行基式目』については知るところがなかった。その時、士族らしい風体の老人がたまたまその店に居合せて、サトウと主人のやりとりを聞いていた。そうして、「それ程までに捜しておいでならば、幸い私の手許に近頃友人から手に入れたのが一本ありますから、写して差上げましょう」と申出た。すべては全く偶然のなりゆきであった。何日かのち、本はこの書店に届けられた。かくしてサトウは念願の『行基式目』を手にしたのである。この、士族体の老人は一切姓名を名乗らなかったので、それが誰であったかは、ついに分らなかった。

以上はケンブリッジ大学図書館に所蔵する二本の『行基式目』の内の一本に記された奥書によって知ることができるこの本入手の経緯である。サトウはその豊かな蔵書を、同学の友人や後輩に惜しみなく提供して明治時代における日本学の発展に大きな貢献をしたのであるが、そのことは彼の外交的閲歴に比して、あまり知られていないらしい。W・G・アストン、B・H・チェンバレンなど、著名な日本学者達の蔵書も、実はいずれもサトウから提供されたものが少なくないのである。
さて、上記の奥書のある本は、謎[なぞ]の老人から贈られた本そのものではない。サトウは、あるいはアストンに送るためであったか、彼のもとで図書係として働いていたひとりの日本人にこれを筆写させて複本をつくった。その時に、この日本人が事の次第を奥書として書いておいたのである。この図書係の日本人は、ちょっと独特の筆癖があって、たとえばサトウ蔵書目録などでもサトウな自筆にかかる端正な毛筆の字に比して、彼の書いた部分はすぐ識別することが出来る。私たちがケンブリッジ大学図書館アストン文庫(といっても実は殆どサトウの収集した書物であるが)の文献目録を作る過程で、この独特の筆跡の主が誰であるかはなかなか分らなかった。
この人物は、サトウの目録の一部のほか、多くの書物の題簽[だいせん]を書き、あるいは天皇家系図などを筆写したりして、サトウの研究を随分と助けるところがあった。この人が、白石澄江[ちようこう]という名前であることは、やがて『伊波伝毛之記』という山東京伝の伝記の奥書署名によって知れた。私はこれを、サトウの自伝『一外交官の見た明治維新』第十九章、新潟奉行白石下総守(白石島岡[とうこえ])について述べたくだりでに、「(白石老人は)よく私に謡曲の意味を教えてくれたものだ。彼の息子は私の図書係となり、私の家で死んだ」とある、その「彼の息子」であろうと信じている。サトウのコレクションの至る所に見出される澄江の筆跡は、彼もまた誠実な努力家であったことを雄弁に物語っている。
行基式目』という小さな書物は、私たち後世の人間に、アーネスト・サトウと、彼を助けた何人かの人々の奥床しい交流の有様を教える。それは、彼が金にあかして高直[こうじき]の善本を買いあさる単なる好事家蒐書家であったならば、決してありえないことであったろう。これ自体は一つの小さなエピソードに過ぎない。しかし、和書を系統的に且つ徹底的に集め、よく読んで、この日本という国を広く深く理解しようとしたサトウという人の風貌を、こういう逸話が、懐しく照しだすのである。