「貧乏はどこへ行ったのか - 村上春樹」お金本 から

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「貧乏はどこへ行ったのか - 村上春樹」お金本 から

自慢するわけじゃないけれど、僕は昔かなり貧乏だったことがある。結婚したばかりの頃で、我々は家具も何もない部屋でひっそりと生きていた。ストーブさえなくて、寒い夜には猫を抱いて暖を取った。猫だって寒いから真剣に人間にしがみついていた。こうなるともう共生みたいなものである。町を歩いていて喉が乾いても喫茶店になんて入ったこともなかった。旅行もしなかったし、服も買わなかった。ただただ働いていた。でもそれで不幸だと思ったことは一度もなかった。金があればなあとはもちろん思ったけれど、ないものはないんだからまあしょうがないやと思っていた。どうしようもなく金に困って女房と二人で夜中にじっとうつむいて道を歩いていて一万円札を三枚拾ったことがある。悪いとは思ったけれど、交番には届けないでその金で借金を返した。人生も捨てたものじゃないんだ、とそのとき思った。我々は若くて、かなり世間知らずで、そして愛しあっていて、貧乏なんか全然怖くなかった。大学を出たけれど、就職なんかしたくないやと思ってけっこう好きに生きていた。客観的に見れば世の中からおちこぼれていたようなものだけれど、不安というほどのものはなかった。
でもまあ、とにかく貧乏だった。
そのときの話をするときりがない。あんなこともあった、こんなこともした、話が次から次へと出てくる。いわゆる貧乏自慢というやつだ。昔は人が集まるとみんなよくこの手の貧乏自慢をした。誰かが自分がかつて(あるいは今)どれほど貧乏であったか(あるか)という話をする。すると他の誰かが「冗談じゃないよ、そんなの貧乏のうちにはいらねえよ」と言い出す。「俺なんか一週間キャット・フード食って生きてたんだぞ」とかなんとか。これは僕個人の置かれた環境のなせるわざかもしれないけれど、僕のまわりには貧乏な人間がいっぱいいた。彼らは冗談抜きで本当に貧乏だった。小林君は食べるものがなくて、椎茸のしんを丼いっぱい食べて食あたりした。まともな人間はそんなもの食べない。堀内君だってものすごく貧乏だった。いつも腹を減らせてよろよろとよろけながら歩いていた。ちょっと前まで(ほんの四、五年前まで)僕のまわりには車を持っている人間なんて殆どいなかった。いたとしてもものすごい音のする三モデル前のカローラとか、汚いライトエースとか、それくらいの車しか持っていなかった。そしてそういうのが当たり前みたいに僕らは考えていた。

でもいつのまにかみんな不思議に貧乏でなくなってしまった。僕のまわりにはメルセデスを持っている人間が何人かいる。BMWを持っているのもいるし、ボルボを持っているのもいる。僕のまわりに金持ちの知人が増えたわけではない。昔から知っている人間がみんな何となく貧乏でなくなってしまったのだ。
これはまあ年齢的なものもあるだろう。みんな歳をとって、何となく何とかなってしまったのだと。でもそれと同時に世間の風潮というのもかなり大きな要素なのではなかろうかと僕は思う。要するに、世界が貧乏というものをあまり評価しなくなったのだ。貧乏というものがただの金のない惨めな状況としてしか捉えられなくなってしまった。だから貧乏自慢なんてもはや全然意味を持たなくなってしまったのだ。
たまに若い女の子と会って話すと - 言い訳するわけじゃないけど、本当にたまにです - 彼女たちははっきりと貧乏したくないと言う。「結婚はしたい。でも生活のレベルを落としたくないのよ」と彼女たちは言う。そしてそれは“希望”ではなく、“信念表明[マニフェステーション]”なのである。かなりはっきりと。「ビンボーが嫌なんだ?」と僕が訊くと、「絶対にやだ」と言う。「ムラカミさんは昔貧乏だったんですか?」と訊くから、「そうですよ」と言うと、彼女たちはたいていわりに困った顔をする。彼女たちには貧乏という状況がうまく具体的に想像できないのだ。想像できないから当然困ってしまうのだ。若い女の子に困られると僕もやはり困るから、その時点で僕は速やかに話題を変えてしまうことにしている。間違っても貧乏自慢なんて口にはしない。そんなことを話したってただただうっとうしがられるのがオチである。
貧乏はいったいどこに行ってしまったんだろう?と僕はときどき思う。
こういうことを言うと本当に年寄り臭いと思われるだろうし、嫌われると思うんだけれど、昔の(二十年前の)女の子たちは「貧乏なんて絶対に嫌だ」とはなかなか口にできなかった。少なくとも僕のまわりにいた女の子たちはそうだった。彼女たちは金のことよりはまず納得できる生き方をしたいという方が先にきていたように思う。そして実際にそういう生き方をしている子が多かった。もちろんそうじゃない女の子もいっぱいいた。外車に乗っている男としかデートしないという子だっていることはいた。でもそういうのはあくまで少数で、少なくとも僕とはあまり縁がなかった。僕のまわりにいた普通の女の子たちは車がなくても金がなくてもそんなことは気にもしなかった。僕は金がなければ、デートしても向こうで金を出してくれた。そんなことは恥でもなんでもなかった。我々が求めていたのはもっと別のことだったのだ。もちろん誰も好んで貧乏になんかなりたいとは思っていなかった。でもそれはある種の通過儀礼じゃないかというくらいには我々はあきらめて考えていたんだろうと思う。そして実際にそうだったのだ。実際に - こんなことを書くのはすごく恥ずかしいのだけれど - 貧乏は実に楽しかった。夏の糞暑い午後に頭がボオっとして喫茶店に入って冷房の中でアイスコーヒーが飲みたくても、女房と二人で「我慢しようぜ」と励ましあってやっとの思いで家にたどりついて麦茶をごくごくと飲む......それはそれですごく楽しかったのだ。それは昔のことだから楽しいというのではない。それは金とは関係のないことなのだ。それはいわば想像力の問題なのだ。想像力というものがあれば、我々は大抵のものは乗り切っていけるのだ。たとえ金持ちであろうが貧乏であろうが。
貧乏はいったいどこへ行ってしまったのか?貧乏は消えてしまったのか?
もちろん貧乏は消えていない。貧乏というのは消えることのない状況なのだ。
日曜日の朝に家の近所を散歩していると、U首シャツにだらっとしたバミューダショーツ、ゴム草履という格好のお父さんがマンションの駐車場でいとおしそうに白いメルセデスを洗車している光景を見かける。そういうのを見ると僕は「おい、おっさん、それけっこう貧乏だぜ」と思う。「そういうのあなたの個人的な偏見じゃない?」と女房は言うけれど。